“尊厳死~自分の生命(いのち)の終わりは自分で決めますか?”
竹内イク子(日本大学通信教育部)
母の死に対して、人生の価値観の延長線上で間違いなくその死を全うさせたいと願った私の選択。精神的ないのちの共有のある家庭像を目指し、個の大切さを考えていきたい。これを家族へのメッセージとする。
はじめに私の終末におけるキーワードとなる二点についての説明と死生観の中でそれぞ
れの重要性を述べてみたい。
一、自己決定権(self-determination)
個別援助の原則の一つであり、サービス利用者らが自らの意志で自らの方向を選択することをいう。自己決定の原則は、利用者自身の人格を尊重し、自らの問題は自らが判断して決定していく自由があるという理念に基づいている。しかし無制限に自由があるのではなく、自己決定能力や「公共の福祉」に反しない限りといった制限付きで自己決定権があるというのが一般的な見方である。また「自己決定」は、利用者を個別援助の過程に積極的に参加させることが大切だという意味で、利用者の「参加の原則」として表すこともできる。→個別援助の原則、バイステックの七つの原則――介護福祉用語辞典(103頁)中央法規出版編集部編――
もしこの自己決定権なるものを終末医療の範囲に限るものではなく拡大解釈を許されるならば、生きていく最大の権利であり防御の権利としてとらえたい。生をポジティブにとらえていく上で、自律した人間の素晴らしい権利であると思う。民主主義の根幹をなすものと言ってもいいものである。たとえ自己決定したものが、孤独に生きることであれそのこと自体はその人にとってのポジティブな行為であろうことは否定できないのである。私はこの自己決定権なるものを生きる中心にすえて生きてきたのではないかと思うのである。魅力あるこの言葉に意志とパワーを感じるのである。そのパワーは生きる力であり、生き続ける延長線上では、それは私の生涯の幕を引く力となり得るものである。
二、インフォームド・コンセント(informed consent)
患者が病気について十分な説明を受け、了解したうえで、医師とともに治療を決定していくことをいう。「説明に基づく同意」などと訳されている。平成二年一月、日本医師会生命倫理懇談会が、インフォームド・コンセントに関する見解をまとめ、医師は病気の内容、これから行う治療法、治る確率やその治療の問題点、危険性などを患者に説明し同意を得ることを求める報告書を作成し、大きな関心を集めている。――介護福祉用語辞典(16~17頁)中央法規出版編集部編――
専門家としての医師が対等の立場で患者とその家族に向うとき、医師の裁量にまかされていた「おまかせ医療」から、どのような医療や看護を受けたいかを患者側が主体的に関わり、選択(インフォームド・チョイス)し決断(インフォームド・デシジョン)していくこととなる。これが前述の自己決定権である。患者側からは正確な情報提供により、よりよい生き方(QOL)を考えることも可能となる。
しかしながら、癌告知をしないと決めている病院では、本人は生命に関わる重要な情報を隠された状態や欠落した中での判断、そして手術等への同意を強いられかねないのである。こうした場合医師は決定的な部分を知らせられないのであるから、「今の段階で、あなたは十分な判断能力がある」等と言って手術の同意など決して求めてはならないのである。
脳死や移植などの場合、患者自身の問題はどうなるだろうか。加茂直樹著「生命倫理と現代社会」(20頁)を引用して考えてみたい。「摘出手術は家族の許諾を得て行われているが、患者本人の意思は無視して良いのか―中略―死後に関しては、献体、死体の利用をめぐる倫理問題がある。―中略―死体が誰に属するのかという問いに対しても安楽死や死の判定と同じく画一的な決定をすべての人々に押しつけることには無理があり、個人個人の死生観をある程度まで尊重すべきだと考える。」氏の言うことの患者の死生観をどんなに医師が推察したとしても人間のつながりのない中では医師の使命感が先行するのではないか。家族の介在なしには考えられない状況下で、家族はその患者その人そのものの死生観や意思を真剣に考えねばならないだろう。
さて、本題に入ろう。
尊厳死――はたして、自分の生命の終わりは自分で決められるのであろうか?
私の死に対する考え方をまとめるにあたって人生の中の各人の死とその意味を考えてみる。若いときの友の死。結婚、二児の母となって家族の中の初めての祖母の死。二年前の母の死は私の死生観に大きな影響力があったのである。その時知覚したものと学んだものを個々に述べてみよう。
◇友の場合(一九六九年)
友からは死の予告を受けていた。無力な私は彼女の悩みと、おかれた状況を受容するだけで何の手だてもなかった。一緒に生きたかったとの思いの涙を私に流させたが、一方でその人らしいと静かに受けとめていた私がそこにいた。その時母からは、死んではいけない、死ぬほどのことがあっても違う生き方を探せと教えられたし、私自身は、この人を悲しませてはいけないと思うばかりであった。母の言葉の中には、商いの不振で住む場所も失いかけ祖母から一緒に死のうと言われた若い日の苦しい日々があったのだ。
◇祖母の場合(一九七七年)
二人の子供の出産と育児の二十八歳。生まれて初めての家族の死と向かいあった。母は体の変調を訴えた実母をいつもの医者には連れていかず市民病院に行った。医師は八十二歳の年齢を聞くと素気なく「年ですからねえ」と言ったという。少なくとも母にはそう聞こえたのだ。母は何の手当もしてくれなかったと嘆き、その腹立たしさを電話で訴え、協力を求めた。母は自分の老後を一人っ子の私の世話にならないようにと努めていたし、また兄弟姉妹の応援もない身では、夫と私を頼るしかなかった。
ガスや腹水で妊婦のようになった祖母を見て驚いた。母は「私が楽にしてあげるからね」と腹や浮腫んだ足に灸をすえ、ガスを排出させ、腫瘍をやわらげようと献身的に体をさすってやったりしていた。一人や二人の努力に限度があることをたいした時を待たないで知らされた。下の世話をさせたくないと言い張る祖母の全身を抱え、簡易トイレに連れていく作業も大変になってきた頃には、一時的にではあるが少し心の隔たりができた事も事実である。私と母は祖母の最後の我がままに付き合ったと思っている。老醜を晒したくなかったのか絶対人に会わなかった。祖母らしいと言えばそうなのか。明治の人らしい。往診の若い医師の前では髪をとき直しおじぎをしていた。たった二ヶ月足らずであったが、病人の「自分を大事に思って欲しい」のメッセージに応えることは大変だった。死の三日位前に不思議なことに正座し手を合わせて、この間の看病にたいして礼を述べ、若い医師の「分かりますか?」の呼びかけに首を振り、返らぬ人となった。
◇母の場合(一九九三年)
突然の出来事としか思えないような母の入院。一刻も猶予はないと言わんばかりのあせりの声が電話の向こうでした。暢気そうに対応した娘に腹立たしさを感じたような強い語気。CTフィルムで肝臓の様子を見せられていた。私と父は呼ばれ母を交えての担当医からの話。母の前では良性の腫瘍だろうから、検査して手術しましょうとの話。手術となるとこの様にしますと話はそこまで進んだ。その部屋を出て帰ろうとする父に医師は実は癌で二ヶ月くらいの命と話したそうだ。手術をすれば二年くらい延命出来るだろうと。そのことを父から聞き、ショックの大きさは、東京の我家につく迄涙はとめどなく流れる程のもので人生最大のものだった。
膨れ上がった肝臓は、腸を圧迫し少し痛みをともなっていた。流れる涙目で家庭医学書で肝臓癌の項目を開いて読む。そこには手術の際に制癌剤を注入する旨のことが書かれていた。医師の説明にはなかったものだ。告知せずの病院の方針の下では確かに正しい情報は入手できない。予防医学に心がけ、体に良いと言われる食物をバランス良く取り、歩くことを日課にし病院に行っても、入院してベットにつくと筋力が弱ると毎朝病院の周辺を散歩している母。生来心臓が弱く強い薬はだめで漢方薬を煎じて飲んでいた。副作用は?心臓への負担は?身体全体への影響は?等々、たくさんの疑問や恐れが出てきた。これらの疑問や恐れに答えて欲しかった。私と母はよくおしゃべりする母娘関係であったので癌についてもMワクチンについてもホスピスについても以前から関心もあり知識として持っていた。とり敢えず痛みを訴える人を聞かないMワクチンの情報が欲しいと日医大に出掛けた。現在も全国でどれくらいの方が購入しているかも自分で確かめたかった。そしてそこでM医師に会う。私の疑問と恐れを整理して下さって次の母の担当医との話し合いで質問する様に序言を与えて下さった。手術を迷っていた私は夫に相談したが、専門家に任すのが良いと思うと答えた。専門家でも二つに別れるところだ。
残された命の短さを考えると、一日一日を大事に過ごせる道をとるか、手術をし苦しくとも一日の延命を望むかは医師が判断するところのものではないと考え、執刀医との話し合いに臨んだ私はこのケースで何パーセントの人が手術を臨まないかと尋ねた。四十パーセントと確か答えられたと記憶している。私の判断が間違っているともいえないと確信。母は正しい情報が入っていないから一か八かの賭けをする覚悟を決めていたが、私の一存で手術を承諾しなかった。命の期限は神のみぞ知ることなので、母には一か八かの賭けをするような場合ではないことを分からせ、たとえ良性でもあれだけ大きい腫瘍にはMワクチンを使い、痛みがやがてやって来ない様に予防してはどうかと説得した。たとえ母と言えども、この時の心情は想像できるものではない。一言、「癌ねえ、ボケるよりはいいかしらねえ」と洩らした。ホスピス病棟があるので万が一を考えて母が選んだ病院だったので、ホスピス病棟に照会してもらいたいと頼んだが、退院してホスピス外来に行くようにだけ言った。手術を拒んだ患者に対する仕打ちのように思えるような冷たさだった。ただホスピスを選択しただけなのに。これも特権階級のものだったのかとガッカリした。母が多くを望んだこの病院からは何も得られなかった。その後の二ヶ月は一ヶ月を東京の郊外で私たち家族と過ごし、父と自分の身の回りの整理と父の今後の事のために大阪に戻り、最期の力をふりしぼった。戦後の困難な時代を知恵と誠実さで生きた女の最後の頑張りだった。
精一杯あなたを愛し育てたことは忘れないで欲しい。精一杯生きたわ。皆さんにお世話になったと言い残して見事に昇天した。自分の親乍ら心の中で拍手を送った。だからあなたは変わった人よと笑っていそうな気がする。
以上三人の死、とりわけ肉親二人を看取った経験は私の身体に直接「死の教育(デス・エデュケーション)」を与えた。
友の死は、私に「私は生きてみる」という決意を抱かせた。祖母の時には人が病に倒れ死に至る経緯を初めてつぶさに見、関わることによって生命あるものに死が訪れるのは、自然の摂理だと受けとめられる力をつけてもらったと思う。その死は恐れるものでも悲しむべきものではなく生命の灯を消す儀式の様だと思うのである。自然死だったからだろうか。六十八才の母の突然の癌告知とその後の残された生命の短さは突然やってくる生命のタイムリミットを衝撃的な一撃で私の身体に覚え込ませて、今一瞬の生命の尊さ、輝きをも大切にしていくことを教えられたのである。
母は祖母が祖母らしくあるようにと願い、私は母らしくと願い人生の幕引きを手伝ったのである。それぞれの自己決定権はどうなったのかと疑問を残すように思えるかもしれないが、そこには生命を託すに相当する信頼関係があったと思うのである。これこそ精神的な生命のつながりでありその人が生き続けられるものである。
物は豊かになったが、精神と精神が触れ合う機会の少なくなった社会で、個を大切にすることをせめて家族の中で育て、生命を託すに足りる信頼の手応えを私は感じたいのである。それには私というものを理解してもらうということだ。だまっていては知りようがないだろう。喜び、悲しみ、矛盾、憤り、希望等々私自身をその時々に語っていく必要があるだろうと思うのである。語り合うという作業に根気よく取り組んでみようと今更乍らに思う昨今、尊厳なる死は尊厳なる生につながるといわれる中で与えられた一日一日を誠実に歩んでいくことを心がけるつもりである。その私の歩んだ道のりを家族には価値あるものとして受け止めてもらえることを願うのである。そして生命の終わりに際しては生前の意思――リヴィング・ウィルを書くことによって家族への決断の拠り所としてもらいたい。見送る側にも納得いく時間の経過が必要であろう。お互いの悔いのないところで別れたいと思うのである。柳田邦男氏が述べる「精神的ないのちの共有」のある家族像を確立することが、すべての問題の礎となると思うのである。
最後に、やはりどんな人でも一日でも長く生きたいと望んでいる筈である。この進んだ医療を早期発見、早期治療で大いに役立てていただき意義ある生を一日でも多く満喫したいと考えるのである。
参考文献