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“尊厳死~自分の生命(いのち)の終わりは自分で決めますか?”
「日本人の死のタブー視の背景と、これからの尊厳死運動について」

越智小枝(東京医科歯科大学医学部)

 

 尊厳死とは何か。これを書くに当たって最初に私を悩ませたのはこの点だった。尊厳死はそれを語る人の立場によって様々に定義されている。ある人は、尊厳死を安楽死も含めた広義の意味にとっているし、またある人は、法律に背かない中での医療行為のみを尊厳死と定めている。しかし、死に方を規定するだけが尊厳死だろうか。最近になって、特にホスピタル関係者の間で、尊厳死というのは医療行為にかかわらずquality of lifeを伴った死である、ということが言われている。つまり死というものを生と切り離して考えるのではなく、あくまで生の延長線上にある出来事としてその過程も尊重するべきではないか、ということだ。私もまたこの定義に従って尊厳死というものを考察しようと思う。
 人類の歴史において、死というものの捉え方は様々に変わってきた。フランスの歴史学者フィリップ=アリエスは西欧社会における死の歴史を、次のような5つのモデルで表している。

  1. 飼い馴らされた死

  2. 自分自身の死

  3. 遠くて近い死

  4. 美化された死

  5. 死のタブー化

 現代の死は5つのモデルで表される。人々が死に慣れ親しむことはなくなり、死は医学的処置の対象としか見られなくなった状態がこのモデルだと彼は言う。
 この5つの死のモデルを見ると、特に4の美化された死、5の死のタブー化に関しては日本での死生観にも当てはまると思われる。
 第二次世界大戦中の戦時教育では、「お国のため」「名誉の戦死」などの考えを児童にすら教え込み、死は究極的にまで美化されたと言っても過言ではない。それは西欧のロマン主義に基づく「美化された死」とはかなり趣が異なるが、当時多くの青少年が死を何か貴いもののように思っていたのは事実であろう。その美化を利用して戦場では多くの命が失われた。敗戦、それに続く天皇の人間宣言で、日本は天皇という形で存在していた一種の宗教と、そして死の目的を失ったのである。そんな日本で天皇のために死ねという思想が、国民を無駄死にへと導いた危険思想へと変わったのは当然の成り行きと言えるだろう。しかしその反動で、良くも悪くも日本人にとって死を語ること、まして死の準備教育をすることなどは必要以上にタブー化され、敵視されるようにすらなった。つまり、人は死に面しても死を受容せず、それに逆らう義務がある、また、周りの人々もその人をなるべく生き続けさせるのが義務であるというような暗黙の礼儀作法ができあがったのである。
 日本は特に「死のタブー化」の進んだ国だとよく言われる。この現象は日本が無宗教の国であることと関係があるように語られることも多いが、私は、現在の死のタブー化の根底にはこのような日本の敗戦という事実があると考える。
 今、あちこちの病院で、意識を失った患者に対して行われる一連の延命治療は「御仏前治療」とも呼ばれる。それが患者の意識回復の見込みがなくても行われる、一種ルーチンワーク化した作業だからである。晴い・蕁△△襪い聾渋紊瞭鐱椶波麁颪鮗・韻討い襪修里茲Δ兵N鼎癲∧顕修箸いε世埜譴譴估鐱椰佑里修里茲Δ福嵶蕕凌粥廚了妻・箸聾世┐覆い世蹐Δ・・・実匸w) もう一つ、死のタブー化と並んでこの国の医療の特徴とされることは、病院死が非常に多いことである。
 日本人の病院依存が高まったのは高度経済成長期である。統計で見てもこの時期に、病人の病院への依存性は急に高くなっている。入院の日数や病院死の割合が増えたのもこのころである。これは一つには国民生活が豊かになり、一般人でも医療費を払えるようになったせいがあるが、もう一つは、高度経済成長の邪魔になる病人と老人を一般社会から隔離し、専門業者に任せようという歪んだ合理主義の結果だとも考えられる。「礼」と「歪んだ合理主義」、この2つが相俟って、現代の日本人の死は病院という「密室」に閉じ込められてしまったと言えるだろう。
 このような密室医療の最大の問題点は、密教や多くの秘密主義的な会合がそうであるように、人々が医者や病院というものに対して一種の尊敬の念、あるいは崇拝の念を抱いてしまったことだ。このため大病院や医学部は権威化し、患者はまるで信者のように医者の言うことに従うようになった。更に医者への依存度は患者の病気の容体が重ければ重いほど強くなると言う傾向がある。人は自分の病を恐れ、死について語ることを避けるあまり、自身の治療法は言うまでもなく入院日数、入院中の日常生活、ついには自分の生き方、死に方すら「教祖」である医師に委ねてしまうようになったのである。
 その結果、いつのまにか医療という一介のサービスにおいて主従関係は逆転した。医者が「否」と言えば患者は自分の本当の病名すら教えられないのが現状である。確かに医療は、人の命を預かるという点で他のサービス業にはない重い責任を負っているが、しかし現実的に見ればただの一個人でしかない医者が、他人の、しかも同じ人間の死に方まで決定する責任を負うべきだろうか、というのが医療従事者の側から見た率直な意見だ。
 最近になってようやく、人々はその「密室」の死に疑問を持ちはじめている。
 安楽死運動、あるいは尊厳死運動そのものは昭和の中頃から一部の医師を中心にして行われていた。日本尊厳死協会の前衛である日本安楽死協会が設立されたのは昭和50年である。しかし末期医療に関する疑問点を一般大衆に知らしめるきっかけとなったのは、昭和天皇の死だったのではないだろうか。
 マスコミによって死の過程があれほど克明に、また連日報道されたのは初めてのことだろう。毎日の「吐血」「下血」を連発した不快な報道に加え正月も明けた頃の頃合いのよすぎる訃報から、年を越すまで彼に無理な延命治療が行われたことは素人目にも明らかだった。また彼の死後、宮内庁の発表によって彼に膵臓ガンの告知がなされなかったことも分かった。「延命治療は本当に正しいのか」という疑問の声が強くなったのは、この頃からである。
 このことは、昭和37年の山内判決と、平成3年の東海大学付属病院事件に対する人々の反応の差を見ても分かる。
 山内判決とは、昭和37年夏、愛知県に住む山内青年が病気に苦しむ父親の「殺して欲しい」という叫びに耐え兼ね、父親の飲む牛乳に有機リン殺虫剤を混ぜて死亡させた事件である。この事件で検察側は尊厳殺人として青年を起訴したが、裁判所側では安楽死の六要件を挙げたうえで、その三項目を満たしている被告の罪状を嘱託殺人にとどめた。この事件は安楽死とは認められていないにもかかわらず、安楽死の合法性を認めたとして日本国内だけでなく国際的にも画期的な判決として報道された。
 一方、平成3年の東海大学付属病院事件とは、当時大学病院の助手であった徳永雅仁が、骨髄ガンの末期患者であるEさんの家族の「早く楽にしてあげてほしい」という要求に従ってEさんに原液のKclを静脈注射して死亡させたもの。この裁判では患者本人の意志が無かったこと、また「楽にする」という言葉のもつ意味が曖昧であることから、これは安楽死にはならないとする医療関係者の声が強かった。
 しかしここで注意すべきなのは、この事件に関する民間の反応である。山内判決に比べてこの事件は、患者の意志が無かったという点で違法性が強い。それにもかかわらず東海大学付属病院のある伊勢原市では「徳永医師を救う会」が結成され、彼を無実と主張する運動が起こっているのだ。
 この2つの事件を比べると、国民の安楽死、あるいは尊厳死に対する関心は昭和天皇の死を境にして確かに高まったといえる。昭和天皇の死は、世界情勢の中で一つの「戦後」の終わりだった。しかしそれと同時に、彼の死は日本の医療にとっての「戦後」をも告げる出来事だったのではないだろうか。
 このように日本人はようやく最近になって病院での死に方というものに問題意識をもつようになってきた。今これ程多くの人が尊厳死について興味を持っているのは、これから死を控えている私達にとって大変喜ばしいことだ。しかし、その尊厳死運動にも未だ多くの誤解と問題点が残されている。
 特に誤解の多いのは、尊厳死を単なる医療問題と見なす人が多いことである。色々な人の尊厳死に関する発言を聞いていると、文字通り「本末転倒」しているのではないか、と思われることがよくある。保坂正康著「安楽死と尊厳死」には、日本では、既に意識を失った患者に対して無理な延命医療を行わないことのみが尊厳死と受けとめられる節がある、と書かれている。これは彼の言葉を借りるなら「木を(末期の症状)を見て森(倫理とか死生観)を見ず」の愚行である。尊厳死とは死ぬまでの生を尊厳を持って生きることであるべきだと私は思う。しかしこれを文字通り、死に方のみが尊厳をもっていれば良いと解釈する人は少なくない。
 もし痛みを伴わない死を全て尊厳死というならば、それは近い将来実現されるだろう。鎮痛薬としてモルヒネが用いられるようになってからの鎮痛医療の進歩は目覚ましく、国立がんセンターの外来部長である吉森正喜の話によれば、末期患者の9割5分は痛みがとれるようになったという。小さな病院などではまだ十分な鎮痛処置が取られていないのが現状だが、それも近いうちに解消されるというのが一般の医師の見方だ。
 しかし一方で、肉体的苦痛とは無関係に安楽死を望む末期患者たちもいる。
 その著書「死ぬ瞬間」で有名なエリザベス・キューブラー・ロス女史は、日本のホスピス医山崎章朗らの「安楽死についてどう思うか」と言う質問に対してこう答えている。「患者さんが安楽死を望むとしたら、それは皆さんのケアが足りないからです。」(山崎章朗著:「僕が医者としてできること」より)
 一九九四年以降安楽死の認められているオランダでは、肉体的苦痛を理由に安楽死を望む人は5%でしかないという。残りの95%が精神的苦痛を理由に死んでいくのだ。この事実は、尊厳死の問題が死ぬ間際の延命治療などの医療問題以前に、もっと広い意味での「死に方の選択」のありかたにあることを暗示している。
 では今、尊厳死運動はどのような流れに向くべきなのだろうか。「自分の生命の終わりは自分で決めますか?」これはこの論文のサブタイトルだった。この自分の死を自分で決められる、という姿勢は捨てるべきではない。しかしこの場合の「終わり」を、瞬間としての死ではなく、発病、あるいは事故にあってから死ぬまでの、長く延ばされた死の形として捉える新しい解釈が必要ではないだろうか。
 そのような形の「尊厳」死を考えたとき、千葉敦子さんの闘病生活は、我々に多くのことを教えてくれる。
 彼女の3度にわたる癌の再発と、頭髪のすべて抜けるような激しい放射線治療に耐えた苦痛だらけの闘病生活はあまりにも有名である。彼女の特異な所は、自分の死を無理に否定することもせず、最期まで自分の生だけに全身全霊を傾けていたことだ。度重なる化学治療と副作用で、彼女の死は必ずしも「安楽」死ではなかったかもしれない。しかし彼女の死を「尊厳を伴った」死ではないと言う人はいないだろう。それは彼女がなによりも自分の生を大事に生きてきた結果ではないだろうか。
 そんな彼女は、その著書「死への準備日記」で次のように記している。「・・・・・・そういう意味では、癌はなかなかよい病気だ。患者本人はもちろんのこと、家族や友人にとっても、別れのときのために準備ができるからだ。心臓病とか、事故で死ぬのとは違って、患者は徐々に弱っていくから、本人にとっても、周囲にとっても、死の受容が比較的自然に行われるのではないかと思う。」
 毎日嘔吐の続くような厳しい化学療法の最中にあってなお彼女がこれほど前向きでいられたのは、どんな時でもバレーや絵画展を見にゆく芸術的欲求、ジャーナリストとしての表現的欲求が明確だったからだったと思う。これからの尊厳死運動が目指すのは、このような生を中心とした死に方ではないだろうか。
 例えば、「死への準備教育」を受けていない我々にとって、皆が皆彼女のように積極的な欲求をもっているとは限らないだろう。私自身、「あと3カ月しか生きられないとしたら、何をしますか」と尋ねられても、とりあえず何も思いつかない。あるいは、何十年もの会社勤めで趣味も無く、告知を受けても病院で寝る以外何も思いつかず、途方に暮れるような人もいるかもしれない。私は、これからの尊厳死運動に必要なのは、「生き方」に関する情報の収集と提供であると思う。
 ホスピスの目的や基本概念を尋ねると、「患者のニーズに出来る限り沿うこと」と言う答えが返ってくる。しかし、損得抜きのニーズを考えたことのない多くの日本人にとって、患者と一緒にそのニーズを探すようなシステムも必要とされているのではないか。例えば、自分が家族に何かを残したいと思っている人にはどんな創作活動があるか、なるべく最後まで仕事に従事したい人にはどんな社会的な補助があるか、病気によってはスポーツはできるか、etc・・・・・・「選択することはできても、思いつくことが苦手」という日本の国民性を踏まえたうえで考えると、このような情報の需要性はいくつか出てくるだろう。
 私自身、たくさんのチューブにつながれてのスパゲッティ症候群では死にたくないと考えている一人だ。しかし、多くの人の意見は延命治療や告知問題に関する医者の態度だけを批判して、未だに死の本質に触れることを恐れているように思われる。医師への崇拝が消えたように見える今、人が尊厳死を頼むのはやはり病院である。インターネットをはじめ民間への情報網の発達した現在、病院側だけでなく、マスコミや民間組織、その他の情報業者の協力はより容易になった。そういう通信手段によって人々が死の情報をより客観的に、より豊富に得られるようになれば、多くの人が尊厳死へ大きく近づくことができるのではないかと思う。


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