“当世無関心考”
「軽やかなる飛翔の可能性」
櫻井一弥(東北大学工学部)
現在23歳になる私は、第二次ベビーブーム世代、俗に団塊ジュニアと言われる世代に属する若者である。他の世代に比較してその人口の相対数が極めて大きいのだが、そうした事態そのものと、そこから生じてくる世代の感性のようなものは、団塊ジュニアを形成するコマのひとつである私自身のうちに陰に陽に刻み込まれているであろうし、実際それを意識してもいる。私ごときが時代の感性を代弁しうるとは思わないが、しかし世の老練たる大人たちに何かと非難されることの多い現代の若者の正当性と必然性に対して、いくばくかの弁護を試みたいと思うのである。
団塊ジュニアたる我々の、その親たちは、終戦直前から直後にかけてつまり日本が最も混乱した状況にあった時代に産み落とされた世代である。私の両親も当然その世代、すなわち団塊の世代の一員なわけであるが、彼らの体験した社会のドラスティックな変貌と、それに対する驚愕の大きさとは、日々語って聴かせられる昔ばなしの中に強烈な色彩をもって織り込められている。
そんな未曾有の経験をその肉体に焼き付けた団塊の世代の時代的特質の中でも、つとに我々を刺激し、卓越とした印象として残るものが、一九六○年代後半から七○年代前半にかけて、一連の学生運動によって特徴づけられるアナーキーな動乱である。六○年安保闘争を皮切りに東大安田講堂占拠事件、赤軍派による幾多のハイジャックや浅間山荘事件。街角では大勢の若者が肩を組みながらフォークソングを声高らかに歌い、学生が仕事帰りのサラリーマンを捕まえて日本の将来について大声で討論を挑む。体制に与することをいさぎよしとせず、こぎれいな格好を嫌って自らの不潔さを自慢しあった時代。そこに社会主義・共産主義的な幻想に基づく一過性の思念的モードがあったにせよ、それ自身のもつエネルギーは強大なものであったと評価することができよう。
我々の世代をこうした時代の人が見れば、そのパワーの無さと目的論的な意志の不在ばかりが目に付いて、怒り出したくなるのも無理はあるまい。現代の若者が無関心であると言われる所以はこうした部分に根をもつものであろう。誰が何をしようと関係ない。自分一人ががんばったところで社会に対して影響を与えるとは思えない。自分が面白おかしくその人生を謳歌できればそれでいいではないか。こういった時代の感性をある人は刹那主義といい、ある人は利己主義といい、またある人は新人類と称するわけである。
自分たちに理解できないものをなんでも“新”という言葉で括ってしまい、それを理解しようとする努力を一方的に放棄することの不当性は当然糾弾すべきものであるが、そうした態度に安逸たることの心地よさも分からないものではない。しかしそれを感情論で是認していたのでは、ちっとも我々自身を弁護したことにはならない。同様に、確かに新人類と言われる不可解な若者もいるが、私はそうではなく、むしろあなた方の世代と思想を共有しえますよ、といった態度にでることも、単にそうした偏見を強化するものに他ならない。いや、この態度のほうが無批判に体制に加担する可能性を含んでいるという意味でより悪質である。それこそ一連の学生運動が最も排除すべき思想として掲げたものではなかったか。いずれにせよ、我々はノスタルジックな幻影に裏打ちされたセンチメンタリズムに堕するべきではないのである。
我々の無関心世代を見事に表現しているのが、“クール”という言葉であろう。何事に対しても冷静な目をもって情熱的に追い求めることをしない。“熱血”だの“根性”だのといった言葉はかっこ悪い、ダサイと言われて時代錯誤的に扱われる。私自身、努力は必ず報われる、などといった努力至上主義を無批判に受け入れる気には到底なれない。世界は明らかに不条理なものであるし、そうした不条理性の中でたまたま富や名声を得たものが自らの優勢を誇示するためにこうした言説を吐くのである。こう言うと、そうした人々は軽々しく蔑すべき群畜で、有名になったり金持ちになることなどいかなる意味も持たず、世の中は無常なのだから何をしてもいいではないかというふうに捉えられてしまうきらいがあるが、決してそんなことを言っているつもりはない。そこに若干のアイロニーがあることは否めないが、私が主張したいのは、熱血であること、ひたすら努力することは絶対的な価値では決してありえず、そうした観点だけから一方的に非難されるのは著しく不当であるということなのである。
努力や熱血が今の日本の豊かな生活を生み出した原動力であったことは紛れもない事実であるし、それに対しては純粋な気持ちで感謝と尊敬の意を表したい。しかしである。それは実は消費資本主義という逃れがたい枠組みの中で起こらざるを得ない間断なき前進運動の一段階において、単なるスピードアップを果たしたむなしいエネルギー消費でしかなかったのではないかという気がしてならないのである。そうした視点から考えるなら、その外すことの不可能な足枷を何としてでも外そうともがき苦しむより、足枷がはめられた状態にあってその場で華麗なステップを踏む軽やかさの妥当性が浮上してくるのではないだろうか。つまり、敢えて結論を急いでしまえば、我々のような現代の若者は、消費資本主義というゲームの中で勝利者たることを欲しているのでも、そのゲーム自体からの脱出を目指しているのでもなく、純粋にゲームそのものを楽しむ、言わば“ゲームの達人”として社会に対峙しているのではないかということである。
ここで、六○~七○年代の学生闘争が為しえたことを、いかなるセンチメンタルな同情をも交えずに浮き彫りにすることは重要な意味を持つと考えられる。そもそもこうした運動の背景にあったものは、彼らの親たちの世代、すなわち戦争に実際にかり出された後、荒廃しきった焦土に立ってその発展のためにがむしゃらに働いた人々の造り出した、豊かではあるが歪曲した社会に対する反動であったはずだ。食うや食わずの貧窮から脱出することを目指して盲目的に努力した先輩達の努力は、確かに物質的な満足を勝ち得たものの、そこには同時に肯んじがたい矛盾が発生していた。それは集団就職といった言葉が象徴しているように、都市と農村の文化的差異の拡大や、機会論的な社会システムへの従属にともなう人間性の阻害といったものであったろう。共産主義のイデオロギーはこうした現実に対して確かにある決定的に透明な未来像を標榜しえた。また、体制の打倒といった考えも、打倒の瞬間に自らが新たなる体制へと豹変する危険性を多分に含んでいるということには目をつぶるとしても、現実の矛盾を是認せず新たな社会のパラダイムを構成しようとしたその意志自体は見事であったと言える。しかしそれが実際に何を示しえたか。消費資本主義の柔軟な網に絡み捕られた哀れな人間たちの姿と、そこから逃れえないということに対する絶望でしかなかったのではないか。この社会において未来予想図を描くことの決定的な不可能性の露呈ではなかったか。我々無関心世代は、実はその決定的な不可能性を意識的にあるいは無意識的に体感しており、そこに真向からぶつかって砕け散る潔さよりも、むしろそこからの軽やかで滑らかな逃走の楽しさのうちに人生を送ろうとしているかのようである。こうしたことを卑怯だと非難する事は正しくない。負けてもともとじゃないか、努力して駄目でもその努力自体が意味のあることだ、と言って若者を鼓舞するのは、もちろんその気持ちは理解しうるものだが、それは後者と同様に恒久的な自己循環、平たく言えばオナニズムに陥っているのである。しかもそれはオナニズムをオナニズムとして認識していないがゆえに極めて危険でさえあるのだ。
話をもう一度消費資本主義に戻そう。この仕組みは、我々人間をそこにおいて作動する歯車として完全に組み込んでしまう。ところがこの仕組み自体が、歯車を操作する技術者として外部に措定されうるものではなく、歯車そのものによって生み出され、かつ歯車そのものの内に内在されたものなのである。従ってそれは絶対的に不可視のものであり、ほとんどが抗いがたい強迫的な力となって我々を動かしている。未来の青写真を描くことの決定的な不可能性はこうした事態に由来していると思える。このことを、例えばジャン・ボードリアールは、現実の過剰であるとか歴史の終焉といった言葉で表現しているわけである。それは決して歴史の断絶を意味するものではない。それはつまり永遠に続く現在しかありえないということなのである。こうした状況を素直に読み取り、それに見事に対応して生きているのが実は現代の無関心世代だと考えることはそれほど無理があるとは思えない。少なくとも、進歩や発展、熱血や根性といった観念ばかりに縛られて身動きが取れなくなってしまう陰欝さに汲々とすることに比べれば、同世代のこの軽さは一つの可能性を示しうるものだとは言えないだろうか。
図らずも、上で歯車としての比喩を用いたが、我々の祖父母の世代、父母の世代、そして我々の世代をそれと類似したモデルで表すことが可能であろう。歯車自身にピッタリと密着した透明で柔軟なフレームによって形づくられた機械がそれである。祖父母の世代はそのフレーム自体の存在に疑問を抱かずにひたすら高速回転を繰り返し、機械そのものの拡大を図った。しかしそれは余りに急激で過度のものだったがゆえに、ある部分に焼き付けを起こしてしまったのである。父母の世代は、そうした焼き付けを根本的に解消すべくフレームそのものの組み替えを行おうとしたのだ。ところが、フレームは歯車である自分自身に余りに密着しているので、その外部への脱出は不可能であった。そこから本当に逃れえるのは、自らが破壊を起こし、フレーム自体に亀裂を入れることによるしかない。しかしその時点でそれは歯車としての働きを放棄せねばならない。これは、精神分裂者の比喩である。それでは、我々の世代はこのフレームの中でいったいどういった作動をしているのか。それは滑らかな作動をしながら、歯車通しの噛み合いの良さや悪さを、作動の正確さや不正確さを、潤滑油の効きの良さや悪さそのものを純粋に楽しみ、あるいはフレームの密着度そのものを楽しんでいるのである。何度も言うように、これは消費資本主義からの離脱の不可能性を嘆いているのではない。むしろそのばかばかしさを徹底的に笑い飛ばしているのである。
無関心であることは、この軽さの必然的な結果である。あるいはゲームであることの結果であると言ってもいい。しかしそれは、他人が不幸で苦しんでいる場面に直面して、諸手を挙げてそのことを喜んでいるとか、それを無視して通り過ぎるといったことを意味するものではないし、私もそうしたことを正当化しているつもりはない。昨年起こった阪神・淡路大震災の後の復興の課程において、我々の同世代がボランティアとして際立った働きを見せたことは記憶に新しい。この事実を捉えて、道義はまだ退廃していなかっただとか、モラルが復活しつつある良い兆しだなどというのはあまり根拠のないセンチメンタリズムであろう。彼らはむしろよりクールに、その事態を見つめていたはずである。道義などといった陰惨なものに惑わされずに、純粋に困った人々を助けることの、あるいはそうしたことを通して震災に遭われた方とあつい交流を図ることの楽しさを享受していたのではないのだろうか。これをゲームと言うことには若干の抵抗があるが、そこには目指すべきユートピアへの邁進だとか、確固たる都市像のようなものがあったとは到底考えられない。彼らはボランティアそのものを楽しんでいたのだ、そういう気がしてならないのである。これはもはやクールな無関心とは言えないだろう。それはむしろ“ホット”で“ドライ”な時代の感性と言ったほうが妥当であるかも知れない。
こうした時代の感性は、その軽やかさゆえに純粋に自己の論理に基づいた飛翔を可能にするものではあるのだが、それは逆に中心性の喪失という事態にともなうある種の不安定な状況を作りやすい。そして、そこに虚構としての磁場が形成されるや、その求心性に対して盲目的に従ってしまう危険性を孕んでいる。これはもちろん、オウム真理教による一連の凶悪な事件に加担した熱心な若者のことを指しているのである。彼らは、柔軟なフレームの中でそれ自体のうちに戯れることを放棄し、自己の周りに架空の強固なフレームを形成しえたと信じ込んでいたのではなかったか。
こうした危険性に対しての決定的な解決策は存在しない。いや、しえないのである。しかしながら、私としては、彼らと世代をともにし、その世代を形成している一員として、このホットでドライな時代の感性を信じてみたい。その可能性にかけてみる価値は十分にあるのではないだろうか。だからといって今度はこの感性に盲目的になってはいけない。それ自体をもドライな目で見据える。これこそが我々無関心世代の最終兵器とも言うべきものである。
不条理さのただなかで華麗なるゲームを楽しむこと。ホットでドライな感性を身にまといつつ、常に軽やかな飛翔の可能性を秘めていること。それはあたかも砂漠の上空に巻き上げられる砂塵のようである。
私たちは自分の子供にいかなる昔ばなしを語って聴かせることができるのだろう。
参考文献・資料
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『千のプラトー』
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ共著
宇野邦一/小沢秋広 田中敏彦/豊崎光一 宮林 寛/守中高明・訳
河出書房新社 一九九四
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『善悪の彼岸』
ニーチェ著 竹山道雄・訳
新潮文庫 一九五四
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『構造と力 記号論を超えて』
浅田 彰著 勁草書房 一九八三
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『都市の政治学』
多木浩二著 岩波新書 一九九四
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『J・ボードリアール×吉本隆明 世紀末を語る あるいは消費社会の行方について』
塚原 史構成・訳 紀伊國屋書店 一九九五