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“尊厳死~自分の生命(いのち)の終わりは自分で決めますか?”
自己決定とリビング・ウィル

井原芳直(東京大学経済学部)

 

1、はじめに
 私が尊厳死について関心を持つようになったのは、祖父の死がおそらくきっかけであったのではないかと思う。それは中学三年の春であった。市立病院に入院していた祖父は、ある日突然意識を失い、約一月半の昏睡状態ののち死去した。
 もちろん当時は尊厳死という言葉を知っていたわけではない。誰もが祖父の覚醒を願い、それ故に連夜の付き添い看護によって疲労していたことをはっきりと覚えているだけだ。葬式の場で、付き添いをしていた親戚の一人が言った。「あれだけおじいちゃんも、みんなもがんばったんだもの、きっと満足しているわよ」、長い闘病生活の末ではあったが、それが血縁者の偽らざる気持ちであったと思っている。
 祖父の死から私はいくつかのことを学んだと思う。看護というのはきれい事ではなく、身をすり減らすこと、そしてそれでもなお、血縁者は最後まで尽くしたいと願うことである。
 当時の私は、祖父の昏睡がどういう状態であったかを知らなかったし、今に至るも知らない。この論文を書く際に母に聞いてみたが、担当医の説明はあったはずだが良く覚えてないとのことだった。ただそれから立花隆の「脳死」をはじめとするいくつかの書物から、昏睡状態などの末期医療における尊厳死という選択肢の存在を知った。
 私は現在、祈月書院という財団法人から奨学金を頂いており、祈月書院では毎年研修会を開いている。私が大学一年生の研修会においては「脳死」がテーマとして取り上げられ、そこで日本尊厳死協会とリビング・ウイルの存在を知ることができた。その後、在籍する東大経済学部での社会保障の授業の影響もあって、今後の老齢者医療の問題に興味を持ち始めたところ、掲示板でこの論文の募集を見つけた。医学については門外漢ではあるが、この機会にぜひ尊厳死、特にリビング・ウイルの問題についてまとめてみたいと思った のが動機である。
2、尊厳死の定義
 一口に尊厳死、安楽死と言っても様々な解釈で用いられている。日本尊厳死協会が日本安楽死協会の改名後の団体であることもあって、二者が混合して使われることも多い。本稿では中山研一(一九九三)に基づいて定義付けしたいと思う。
 尊厳死とは、回復の見込みのない末期状態の患者に対して生命維持治療を中止し、人間としての尊厳を保たせつつ、死を迎えさせることと解されている。これを安楽死と比較してみると、末期状態という点は同じであるが安楽死が苦痛の緩和・除去を目的とした死期の短縮の問題であるのに対し、尊厳死においては延命治療の中止が問題になっているのである。この点から、尊厳死は消極的安楽死と同義であると考えて差し支えないと思われる。本稿では以上の定義を前提として議論をすすめたいと思う。
3、尊厳死問題の所在
 では尊厳死の何が問題なのか考える。尊厳死問題において過剰と思われる延命措置を拒否することは個人の尊厳や幸福追求権を保証する憲法13条に由来するところの、「自らの死を選ぶ権利」の問題、さらには人格の自己実現に関わり合う自己決定権の問題に帰結すると考えられる。よって本稿では尊厳死における自己決定権を第一の論点としたい。
4、人間の尊厳
 私たちが、末期状態においての医療停止を、尊厳死(death with dignity)という言葉を使って表現する以上、人間の尊厳、生命の尊厳とは何かについて論及すべきであろう。人の命は、たとえ余命わずかになっても、その生命が終わる最後の瞬間までは、すべての人々と同質平等に尊いものである。しかし状況によっては、生命よりも、優先度の高いものとして人格の自己実現としての自己決定権が論じられる。つまり意識喪失状態になって、自己決定能力を失ったならばその時人はその尊厳性を失うのかという問題が導かれる。
 「失われてしまう」というのが尊厳死容認の基本的立場であり、それ故に末期状態において尊厳を失ったまま状態のまま「生かされる」よりは尊厳ある死を選択するという意見になる。しかし、このような人格論に立ったばあい、精神活動能力を欠く生物的存在は人としての存在に値しないということになり、極端に言えばナチスの「生きる価値のない生命の否定」といった考えにつながるおそれもあることを意識しなければならないであろう。
5、自己決定権の問題
 人格論を離れて、現実における患者本人の自死への自己決定権の問題を考えると、大きく二つの場合に分けられる。自死への本人自身の意思表明がなされている場合と、本人が意思能力を失ってそれが表明できない場合である。
 まず、末期の状態において本人の自死への意思表明がある場合である。その明確な意思が確認されれば問題は少ないようであるが、自己決定権といえども、無差別に承認されるというものではない。法や社会文化規範に照らして妥当と思われる範囲においてのみ尊重されるものである。
 つまりここで自殺意志との区別を付けねばならない。もし延命措置の拒否が自殺意志であるならば、これは違法な行為への自己決定であるから、それは法的に(また道義的にも)承認できないことになる。しかし尊厳死への願望は、自殺意志と区別されるものと考えられる。その理由としては、それは「死の原因を自ら設定する」ものではなくて「病気の進行による自然な死に委ねたい」とする意志だからである。こうして自殺意志とは区別された患者の生命維持治療の拒否は、法及び社会文化規範の承認を受けた自己決定権に裏付けられた意思として尊重されるべきである。
 しかしその場合にも、その意志は誰からの強制や圧力を受けない本人の真摯な意志でなければならないとともに、その臨終の場において、主治医などを立ち会いの元に、その病状に関するインフォームド・コンセントの手続きを経たものでなければならない。
6、リビング・ウイルの有効性
 前節で自己決定権の尊重について述べたが、末期状態において患者が自分の意志を表現できる場合であれば、問題はそれほどに複雑ではない。だが実際には臨死の場において本人に意識がない場合が多々ある。そのような恐れに対して、意識喪失などのために自死への願望を表明することができなくなることを予想して、あらかじめ“リビング・ウイル”といわれる文書により尊厳死宣言しておくことが尊厳死運動やアメリカの立法においてみられる。この“リビング・ウイル”の有効性を第二の論点としたい。
 もちろんこうしたリビング・ウイルがあるからといって、それだけで安易に延命措置の中断をなすべきではなく、もし臨死の場でなおその患者に意識があるならばもう一度、本人の本心を確かめる必要があるであろう。
 しかし問題は、臨死の場において本人に意識がなく、再度意思確認ができない場合のリビング・ウイルの効力である。これについては否定的な意見を持つ論者は、「自己決定は知らされた上でなくてはならないと言うインフォームド・コンセントの考えを用いれば、健康時に作られた書面は拘束力はなく、せいぜい末期時における参考資料としてしか意味をもちえない」という見方をしている。確かに、以前の健康なときに作成したリビング・ウイルが臨死の場における患者の本心と合致するかということになると、必ずしもそうは言えないであろう。それ故に私は以下に述べるいくつかの条件を満たす上で、リビング・ウイルに効力を持たせるべきであると考えている。
 第一は、リビング・ウイルを表明するものは、十分に自らの生死について考慮を巡らした上で意志決定を行うことであり、第二はいったん宣言したリビング・ウイルは撤回可能なものとし、しかもその有効期間を短くし、意志を固めていく機会を何度も与えること、である。このような視点に立ってみると、現在日本での“リビング・ウイル”の基準とも言える日本尊厳死協会版のリビング・ウイルにはいくつかの改善点があると思われる。第一について考えると、あまりに簡単にリビング・ウイルを作ることができるという点が挙げられる。わたしも実際に取り寄せてみたが、資料請求し、必要事項を記入して送り返すだけで済んでしまう。専門家のアドバイスの上で決定するようにするなど、尊厳死の理解が必要な入会方法にすべきであろう。第二について言えば、現行では終身有効制度を選択できるが、1年ごとに更新が事務上無理だとしても、せめて5年、10年ごとに意思の確認をするべきだと考える。ただ簡素な入会方法によって、日本尊厳死協会が多くの会員を得、それによってリビング・ウイルや尊厳死についての知識が啓蒙されたことについては、協会の役割を高く評価したい。また同協会が促進してる「末期医療の特別措置法案」、いわゆる尊厳死法についてはよりいっそうの議論と立法化の動きを望みたい。立法化されない間は、法解釈に従って考えるリビング・ウイルは医者に対して(法的)拘束力を全く持たないことになるからである。
 最後に本人の意思表明がない場合について考えると、現行においては、尊厳死への道は険しいと言わざるを得ない。アメリカでは判例によっていくつかの代行決定方式を提案しているが、その決定が“死ぬ権利”に基づくものから“死なせる権利”に基づくものへ変質してしまう恐れがある。今後日本社会において尊厳死が根付いた後に議論すべき事柄であると思われる。
7、社会的文化的背景
 ここでは今までの制度的、法的な視点から離れ、患者とそれを取り巻く社会的文化的な意見の視点から尊厳死について議論したい。最初に自己決定権の議論をした際に、それは法的、社会文化規範に照らして妥当だと思われる範囲において認められる、と述べたが、日本社会においては自己決定権の行使に当たって社会文化規範が障壁になる場合が多く見受けられる。自己決定権は個人主義に基づいているわけだが、日本においては、例えば日本尊厳死協会に夫婦会員という選択肢が見られることからも分かるように、西洋的個人主義社会とはかなりな違いがあると認めざるを得ない。家族主義、集団主義を基盤とする日本では、家族や仲間内の人々の考え方を気にして、自分の意見を明らかにしない傾向がある。特に病気の場合のように、何かと誰かに世話にならなければならなかったり、病気で自分がしなければならないことができなくなって周りの人たちに迷惑をかけたりする場合には、家族や、周りの意見を聞かずに自分で決めるわけには行かない場合が多いのである。
 しかし、そういった文化的背景という根拠で、個人の自己実現を阻害するような集団主義を認めてしまうのであれば、自己決定権を理論的な根拠とする尊厳死の妥当性は崩れてしまう。尊厳死という選択肢を有効に活用するには、単なる制度的、法的整備のみならず、文化的社会的変容を伴う必要があるということである。もちろん社会・文化はそう簡単に変化するものではない。わたしがここで主張できるのは教育の必要性のみである。それは単に義務教育において尊厳死についての授業を設けるというだけのことではなく、社会全体において、時には医師によって、書物によって、両親によって、個人が自分の可能性を十分に引き出していくことを教え、学べるようにしていくことである。それは尊厳死制度の進展によってもいくらかは達成されるだろう。しかし尊厳死制度の改善のみでは決してすべてを変化させることはできない。インフォームド・コンセントなどの他の議論と連結して社会・文化を変革しているなかで、新しい生命倫理が私たちの共通認識として育まれると考える。

8、最後に
 尊厳死について考えてきて、さて自分はリビング・ウイルを明記すべきなのだろうかと考える。もちろん私はまだ若くて、周りの友人は死なんて考えてもいない。おそらく私の両親は、私が(例えば交通事故で)脳死状態になっても、祖父の時そうであったように最後まで最善を尽くしたいと考えるだろうし、私も、恋人がリビング・ウイルを明記していたとしても、それを無視しても生きていて欲しいと願うと思う。しかしそれでも私はこのリビング・ウイルについて周りの人々と話し合ってみたいと思う。多分「止めろよ」という人もいれば、「いいことだ」という人もいるだろう。そうして、自分の尊厳死に対しての考えが定まれば、そのとき“リビング・ウイル”を書くつもりだ。そしてそれからも考え続けたいと思う。
 このような態度をとろうと思ったのには、おそらく私の好きな作家の言葉が影響してい るのであろう。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」

参考文献

  • 「尊厳死問題」
     中山研一 一九九三 日本評論社
  • 「安楽死と尊厳死」
     保阪正康 一九九三 講談社
  • 「医療の倫理」
     星野一正 一九九一 岩波書店
  • 「私事と自己決定」
     山田卓生 一九八七 日本評論社
  • 「自由論」
     J・Sミル 一八五九 岩波書店
参考資料

  • 日本尊厳死協会作成の“尊厳死の宣言書”
    入会用資料
  • 死の権利協会世界連合
    第9回国際会議講演記録集


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