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“臓器移植-あなたはドナーになりますか”
『不老不死』

和田ちひろ(慶應義塾大学文学部)

 

第一章 老いた科学者の悩み
 私は、もう三五八歳になった。これまでに何度、移植手術を受けたことだろう。腎移植、心移植、肝移植…。私が持って生まれた臓器など、もはや一つも残っていない。全て善意のドナーから戴いたものだ。
 私は、ノーベル科学賞をこれまでに十五回受賞しているから、生きる価値のある人間とみなされているのだろう。今度は永久人工心臓を入れてくれるという。そうなれば、私は半永久的に生き続けることができる。あと二百年待てば、全身移植、脳移植すらも不可能ではなくなるらしい。
 ところで、私は今、一つの研究を行っている。それは、新しい人種を繁殖させること。『臓器提供人間』とでも呼んでおこうか。人間の遺伝子を上手にいじくって、人間と変わらない肉体を持ちつつも、霊長類の知性を持たない、できれば痛みすらも感じない、そんな人種を繁殖させることを命じられている。彼等を飼育することによって、人間に移植する臓器がまかなわれ、全レシピエントの需要に答えることができるというわけだ。
 人様から戴いた臓器で、三世紀半も生きていながらこの研究には、いささか疑問を感じる。このままでは、全人類の夢であると言われる「不老不死」が現実のものとなってしまう。まさに私がいい例だ。
 人間は、霊長類最高の知性によって技術を作り出すことができる。しかし、それを使うかどうかということもその知性を持って判断しなければならない。
 私のこの研究を進めるべきかどうか、深く考察したいと思い、論文にまとめた。

第二章 日本人の生死観
 人間は肉体と霊魂から成っており、霊魂の働きが人間の活動の源流になっている。生は胎児が霊魂を受けることによって生じ、死はその霊魂が肉体から遊離した状態であると、私たち日本人は考えてきた。
 肉体と合体した霊魂は生魂と呼ばれ、遊離した霊魂は死魂となる。よって葬式とは、生魂が顕界を卒業し、死魂として幽界へ入学する儀式であると考えることができよう。
 日本では、誕生に関する儀式と、死に関する儀式が面白いほど対応している。お七夜に対する初七日、三歳祝いに対する三年忌、七歳祝いに対する七年忌、二十歳の成人式に対する弔いあげ。生魂は成人式を迎えると、一人前の成人として顕界で認められ、死霊は三十三年忌の弔いあげを終えると、幽界で完成した祖霊と認められる。そして顕界を見守る仏となる。幽界の祖霊が新生児に付着することが新たなる生の始まりであり、この生命の循環が日本社会では成り立っている。

第三章 生活の手段
 そもそもなぜ、病気になったり、不幸が襲いかかったりするのだろうか。日本人はそのような時、自分にふりかかった災難をどう理由付けて、自分自身を納得させ、社会における秩序を保ってきたのであろうか。
 先に死霊は生者の供養によって、完成された祖霊になると述べた。しかし霊によっては、子孫に奉られないものもある。このような死霊は幽界に入学することができなかったり、退学処分を受けたりするとされている。そういった死霊が怨霊、邪霊となり、この世の人々に祟りをもたらすのである。人に不幸が起こった時、周囲の人々はあの人はお墓を大切にしていなかったから、ご先祖様の祟りだ、バチがあたったんだと、その不幸を説明しようとする。
 つまり、あの世とは、この世で起こった解決し得ぬ不幸や行きづまりを説明するための手段として存在している。あの世(幽界)の存在は現世を秩序付け、生き抜くための生活の知恵であるということができるのではないだろうか。

第四章 中絶 VS 脳死
 脳死は賛成、中絶は反対というアメリカと、中絶賛成、脳死反対の日本。このような違いがなぜ起こっているのであろうか。
 先にも述べたとおり、日本では誕生の儀式と、死の儀式が対応してなされている。このことは、生きている人間を大切に思うのと同様に、死んでから三十余年もの間、死者への愛情を示す日本人独特の生死観によるものとも言えるし、死者に対しての尊厳の維持が日本社会全体を秩序付けているからと言うこともできよう。心臓が鼓動する『死体』を、死者であると定義することに対して、日本はまだ難色を示しているという背景には、このような社会的、文化的国民のコンセンサスがあるからだと言うことができる。
 一方、キリスト教精神が根付いているアメリカにおいては、死は、イエス・キリストのもと、天国へと召される素晴らしいことであり、生命とは、イエス・キリストが与えてくださった大切なものであるというコンセンサスが取れている。死ねば霊魂はキリストのいる天国へと召されているのであるから、入れ物であった肉体に対する執着心は、日本人と比較した場合、かなり弱いのではないかと考えることができる。一方、一個の完全な人間である胎児を堕ろすことに対しては、我々が人為的に干渉するのは神が秩序付けた自然の法則に反するというコンセンサスのもとに、社会が秩序付けられている。それに対して、「アメリカ人は胎児を神が与えてくれた大切な宝物だ、などと宗教臭いことを言っている。なんと不合理で、前近代的な発想をする国民なんだろう。」と、言うことは決してできないであろうし、また、
「日本には、臓器移植を行えるだけの技術はあるのに、伝統的な死の観念に捕らわれているがために、脳死についての国民的理解がない。だから助けられるはずの命を救えないでいるんだ。諸外国では脳死が人の死と認められていて、臓器移植は幅広く行われているのに、日本人はなんと自分勝手で、遅れた発想の持ち主なんだろう。」と、言われ批判されるべきでもないだろう。
 現代における生死観は、インターナショナルなものではなく、各国の伝統的文化や歴史、宗教、法律といった社会的背景のもとに、その国ごとに定義付けられていると言えよう。

第五章 ドナーの獲得
 「彼女は、父のアルツハイマー病を治すため、脳細胞を移植できる段階になるまで胎児を成長させたいと考えた。さらには組織適合をよくするために父親の精子で妊娠したいと、言い出している。」
 アメリカにおける現行法では、父の精子による妊娠は違法と見なされるが、その他の点は違法にはならない。
 八十年代に入り急速に増えた心臓移植が、アメリカにおいてここ三年くらいドナーが不足しているために頭打ちになっているという。その原因の一つに、シートベルト着用などによる交通事故死の減少が関係していると言われる。アメリカでは、脳死の原因の61%が交通事故によるものであり、そのほとんどが高速道路の上で発生する。つまりはシートベルト、ヘルメット、子供用シート、制限速度法などが移植される臓器の数を大きく左右するというわけだ。
 仮に連邦政府の定める制限速度が55マイルから65マイルに引き上げられ、すべての州が新規スピード制限を採用すると、高速道路上での死者は九千人増え、そのうちの10%がドナーになるだろうという計算もある。交通事故の増加を計らない限り、ドナー増加の見通しが立たないというのは、深刻な状態であると思われる。
 またアメリカは、ドナーの増加を計るためか、州によっては人工呼吸器を付け、死刑を執行したり、警察官が犯人を打つときは頭を狙えとさえ、指示されているという。頭部に銃撃を受けて入院するものが脳死患者の20%にも達するのであるから、アメリカのピストル規制さえも、臓器の供給にはマイナス効果を及ぼすのである。

第六章 法的に認められる『生』
 アメリカでは、毎年千人から三千五百人、大脳皮質のない子供(無脳児)が生まれている。無脳児は、大脳皮質がないために、考えることもできなければ、痛みを感じることもない。無脳児の最長生存記録は五ヶ月半であり、大部分は数日で死亡し、彼等に対する治療法はいまだ確立されていない。
 現在、アメリカの42州で合法とされている脳死には、脳幹機能がないこと、という規定がある。よって、脳幹機能があり、自発呼吸をすることができる無脳児は、法的には生きた人間であると見なされている。
 しかし、西ドイツでは無脳児は法的に死んでいると見なされているため、合法的に無脳児からの臓器摘出が行われ、これまでに臓器移植成功が三例、発表されている。
 ある国では生きている人間であり、ある国では、死んだ人間であると見なされる。人間の生死は、その国の法律によって決定される時代とも言える。

第七章 臓器の有効利用
 中絶した胎児の臓器と、無脳児の臓器は基本的に同じで、利用価値がある。つまりは、未熟児や自然流産の子たちの臓器も十分に活用できる資源なのだ。そして皮肉なことに、彼等からの臓器は、成人から移植する臓器よりも医学的には優れていると見なされている。なぜなら胎児の臓器からであれば、免疫がないためにレシピエントが抗体で攻撃される可能性はかなり少ないからである。
 感情的には許されなくても、発想的には、脳死の人間の臓器を移植するのも、胎児の臓器を移植するのも同じことである。どうせ火葬すれば灰になるんだから、他人に有効利用してもらおうという人類愛のもとに、現在、臓器移植は行われているのだから…。
 まだ使える『モノ』なのに焼いてしまうのは勿体ない。中絶したんだから、せめてもの償いに、臓器を提供させていただこう。果たして、これが人類愛なのだろうか。これがイエス・キリストのいう隣人愛なのだろうか。
 諸外国は脳死を人間の死であると見なし、脳死における臓器移植を合法化しているのだから、胎児の臓器を有効利用することも将来的には合法化されるのではないだろうか。すると、いつのまにか中絶に対する罪悪感は払拭され、中絶は善行ですらあるような、気になってしまうのが人間なのではないだろうか。

第八章 人体部品株式会社
「わたしの臓器、売ります!」
こんなチラシが、大阪の電柱に貼られていると、ある新聞が報道していた。日本における臓器の売買は当然禁止されているし、アメリカにおいても、一九八四年の臓器移植法で、人間の臓器や組織(骨、皮膚、硬膜等)の売買は違法とされている。しかしアメリカには、『非営利』を掲げた組織バンクが数多く存在している。ロサンゼルス地域では、遺族は死後、たった一日のうちに、三カ所もの組織バンク(それらはいずれも非営利団体)から臓器提供の要請電話を受けているそうだ。
 確かに売買はしていないのだろう。しかし、組織バンクが儲からないのだったら、どうしてこれほどまでに激烈な競争があるのだろうか。実際には『非営利』組織バンクは、死体から刈り取った組織の『処理費』をうんと水増しして、製品を届ける際にレシピエントから取り立てているらしい。
 臓器や組織は私個人の付属品である。ならばそれらを死後、再利用できる『モノ』として商品化するのはいかがなものであろうか。

第九章 富める者と死に逝く者
 過去において、また現在においても経済的に恵まれない発展途上国などにおいては、売春や、子供の売買が生活の手段として横行していたし、また今、現在も横行している。それは、自分の肉体を生活の手段として、商品として活用していることにほかならない。
 ある国では、生まれてすぐの赤ん坊の腕や足を親が切り落とすという。そうすれば、人はその子を哀れみ、お金を恵んでくれるからである。五体満足な子供が物乞いをするよりは、不具の子がしたほうが、経済効率が良いというわけだ。手や足を失った子供は先進国の人間が考えると、かわいそうなのかもしれないが、稼ぎがなくては、一家が飢えて死んでしまうのだから、その国の親にしてみれば、それは生きていく上での手段なのであり、生んだ子供をなんとか殺さずに、生かしておくための善行なのである。
 それならば、お金になるなら臓器を売りますと彼等が言った場合、先進国に生きる我々が、果たしてその申し出を否定することができるであろうか。金銭的に恵まれない者は、自分の臓器までをも売って生活をする。経済的に豊かな者は、彼等の臓器を買って、半永久的に生きるようになる。そんな社会が出来上がってもいいのだろうか。それでは貧乏人が臓器を育て、金持ちがそれを刈り取るという二種類の社会を作ることになるではないか。経済的効率の良い人種のみが生き永らえることができるなどという社会が出来てしまったら、それは恐ろしいことではないか。

第十章 老いた研究者の悩み
 よって、私は今、そのような社会を作らないために『臓器提供人間』を作り出すよう、命じられたのだ。人間の臓器や死体に経済的価値が付与されるようになれば、お金欲しさに殺人を犯す者も出てくるのではないか、そんな事態を未然に防ぐためにも、人間からの臓器移植ではなく、新しい人種からの移植が望まれる、と。
 日本人は、死者を弔い、弔った祖霊がこの世を守ってくれると信じてきた。誰も死ななくなったら、果たして誰が祖霊となって、この世を守ってくれるのであろうか。
 アメリカ人は、来世利益のために、イエス・キリストの住む天国へ召されることを人生の目的として、現世を生きてきた。彼等が半永久的に生きることを望むのであれば、それはキリスト教の教えに反することになるのではないだろうか。
 それぞれの国を秩序付けてきた思想が破壊したとき、全人類を秩序付けるような国際秩序なるものが生まれるのであろうか。
 イスラム教の経典、コーランは世界各国で手に入れることができ、国際的なものであるということができるが、イスラム教を国が受け入れ、国民がアラーの神の存在を信じるかどうかということはまた別問題であろう。それと同様に、医療技術はインターナショナルであっても、その技術を国民が受け入れるかどうかということは別問題であり、それについては宗教を受け入れるかどうか、という問題以上に議論されるべきであると私は考える。なぜならば、これはその国に深く根付いている生死観に関わる問題だからであり、生きるとは、死ぬとは、という問いは一人一人の人間に大きく関わってくるからである。
 これからはボーダーレス(国境なき)時代であると言われるが、それは一つの世界的コンセンサスのもとに、地球社会全体が秩序付けられていくということなのであろうか。そうなるには、地球は空間的にあまりに広すぎはしないだろうか。地球全体が生とはなにか、死とはなにかと考え、一つの答えを出すことが果たして可能なのであろうか。そうなるには、各国の文化というものは、我々人類の中にあまり深く根付きすぎてはいないだろうか。
 私は年を取り過ぎた。これまでに培われてきた既成概念というものに捕らわれ、柔軟な考えが持てなくなっている。空間的にも時間的にも自由な発想ができなくなってしまっている。
 既成概念。これが思考の展開を妨げる上で一番厄介な代物だ。既成概念さえなければ、私はもっと自由にものを考えることができるであろうに。空間も時間をも超越した、人類普遍の生死観を提供することができたであろうに。
 全世界においてコンセンサスの取れた生死観がないままに、新しい人類を作り出すというような研究をしていていいものだろうか。この研究の成功、つまり新しい人類の登場は既存の人類の生死観を根底から覆すものになるのではないだろうか。考えれば考えるほど、自分の研究が恐ろしく感じられる。
 しかし私は死ぬまで、この『臓器提供人間』の繁殖研究に従事することになるだろう。なぜなら私は『臓器提供人間』を繁殖させることに倫理的問題を感じながらも、科学者としての好奇心を押さえることができないからだ。人間とはそういう弱い生物なのかもしれない。
 そういえば、明日は人工心臓の手術の日だ。これでまた、私の寿命が延びる。不老不死がいいのかどうかは定かではないが、技術がある以上、人間はそれを使わずにはいられない。そして使わずにはいられない、その好奇心が、霊長類最高の知性を持つ人類の限界とも言えるのではないだろうか。

参考文献
●中島みち 「脳死時代の生き方と死に方」
       時事通信社・1994
●向井豊明 「医療と医学の思想」
       れんが書房新社・1993
●厚生省健康政策局総務課 「死の定義」
       第一法規・1991
●川上武他 「日本人の死生観」
       勁草書房・1993
●柳田邦男 「死の医学への序章」
       新潮文庫・1990
●広井向典 「アメリカの医療政策と日本」
       勁草書房・1992
●宮家準  「日本宗教の構造」
       慶應通信・1974
●マーク・ダウィ 「臓器移植」
       平凡社・1990


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