“「ジュリアナ」がなくなった”
「ジュリアナ」と現代社会~歴史的モニュメントへの一考察~
谷本かおり(立教大学文学部)
1.はじめに
ジュリアナがなくなった。“流行り廃り”は世の常だが、これは単なる一遊技場の閉店というだけではない。『ジュリアナ』は特異な若者文化の一つであったが、その背景には現代社会に潜む様々な問題が混在している。
すなわち、日本古来の伝統的“恥の文化”の崩壊やメディアによる影響力の強さ、ストレス社会に生き“解放と陶酔”を求める若者たちなど、現代日本の若い世代にある新たなパラダイムを浮き彫りにしているといえる。
ジュリアナ東京は、平成3年東京・芝浦に開店した日本初の外資系ディスコで、最高収容人員2000人・投資総額15億円という豪華さを誇って若者の人気を集めていたが、平成6年に閉店した。フロアーには、舞台のように一段高くなった「お立ち台」なるものがあり、この上で過激なファッションをした若い女性が扇子をもって踊り、そのまわりに見物の男性客が群がっていたという。
「男女七歳にして席を同じゅうせず」という礼記の記述は、つい半世紀ほど前までは日本の社会を圧倒的に支配していた価値観であった。それが、今では公衆の面前でほとんど生まれたままの格好をした女性が踊る…保守的な年配の方は、度肝を抜かれるかもしれない。
“女は一歩さがって男を立てる”的な社会通念は、もはやアナクロニズムの典型だ。女が強くなったのか、はたまた男が弱くなったのか。
本稿において私は、女性としての立場から“『ジュリアナ』がなくなった”ことについて論じていきたいと思う。
2.シンデレラ・コンプレックスの憂鬱
-何が彼女達を過激に踊らせるのか?
本章では、「ジュリアナで踊る女性たち」所謂“お立ち台ギャル”に視点をあて、その行動と意識・環境の関連などをミクロ的に分析してみたい。
いったい何が彼女たちを過激な服装で踊ることへと駆きたてるのだろうか?まずは、いくつかの仮説を立ててみた。
(1)変身願望説
人間、誰しも「変身願望」なるものをもっている。急に髪型やファッションの志向を変えてみたり、身振りや話し方を変えてみたりする。これは、人間が“成長”するものであり、常に現状に満足しない生き物だからではないだろうか。現状に甘んじることは、停滞を意味する。これでは人間は伸びない。夢や理想、野心を絶えず胸に抱き、「変身」していかなければいけない。
このような“変身願望”を満たしてくれるもの、それがジュリアナだったのかも知れない。彼女たちは、昼と夜で別の顔をもつ。昼間はごく普通のOLだったりする。それが、夜になると過激に「変身」する。昼と夜で全く違う自分を自ら演出することで、彼女たちの変身願望は満たされる。
(2)現代社会の抑圧からの「解放」説
社会生活には、様々な制約がある。法律、道徳、掟、マナー、暗黙の了解…複雑な高度情報化社会に生きる私たちは、いわば鎖でグルグル巻きにされているような状態にある。誰だってそのような現状を打破したいと思うが、できない。それならばせめて、ジュリアナで暫しの解放を、と。
「抑圧からの解放」というと大袈裟すぎる感があるが、ちょっとした息苦しさが鬱積してどこかに解放のはけ口を求め、お立ち台に上り、洋服とともに社会の“しがらみ”も脱ぎ捨てているのかも知れない。
(3)より動物的な本能説
近頃、人間という動物は“生まない”などの選択肢を検討したりもするが、生物である以上は本能で子孫を後世に残そうとする。それにはより優秀でより魅力的な異性をみつけなくてはならない。例えばクジャクのオスは派手な羽を広げて異性にアピールする。彼女たちが手にする“扇子”は、これに近い効果をもつと考えられる。
(4)お立ち台“桧舞台”説
高度文明化社会の中では、「個」という存在は実にちっぽけに思えてならない。いわゆる「自己疎外」感だ。自己の存在を他者に知らしめたいと欲し、注目を集めることで自己を実現するのである。日常の社会生活の中では一般大衆の中で埋没している彼女たちも、ジュリアナのお立ち台のうえでは“主役”となり、他人の視線も心地好くなる。要は、目立ちたがり屋なのだ。
お立ち台は、彼女たちにとっていわば“桧舞台”なのである。多くの人に注目され、人よりも高い位置にいることで他人と差別化され、ある種の「優越感」に浸る。そこは自己実現の場である。お立ち台にいる者だけが持つことを許される派手な“扇子”は、一般客と彼女たちを区別させ、権力を誇示するための道具である。
(5)気分転換“カタルシス”説
「憂さ晴らし」という言葉がある。嫌なことを忘れ気分をスッキリさせることを意味するが、まさしく彼女たちにとって踊ることによってカタルシス的な効果が得られて憂さ晴らしとなり、気分転換をすることで明日へのバイタリティーを充電しているのではないだろか。
様々なフラストレーションと共存する現代社会の中では、気分転換を上手にしないとまいってしまう。ある人はスポーツで爽快な気分になり、また、眠ることで気分転換をする人もいる。彼女たちは、何にも縛られることなく解放感に浸りながら踊ることが何よりの気分転換なのである。現に、映像などで見る限りでは踊っている時の彼女たちは、実に楽しそうで明るい顔をしている。
(6)自己陶酔・“究極のナルシシズム”説
彼女たちは“踊っている自分”が好きなのではないだろうか。過激な格好に身を包み、不特定多数の視線にさらされている、という自分に酔いながら、解放と陶酔の中である種の覚醒を得ているのである。
お立ち台の回りには男性が群がっているという。彼女たちと彼等には、「隔たり」がある。つまり、彼女たちは自己顕示欲が強く、“女王さま気取り”であり、彼等はそれを下から見上げるだけなのである。そのような“自分”を愛し、幻想的な非日常という空間の海で、陶酔しながら溺れている、という究極のナルシシズムなのである。
(7)羞恥心の麻痺・“単なる価値観の変化”説
時代が変われば、社会も変わる。当然、人間の意識や価値観、行動様式といったものも変化してくる。
単に、新しい世代の価値観が変わったに過ぎないのだ。“親からもらった大切な体を…”などといった価値観は古くさく、むしろ“楽しけりゃいいじゃん”的な価値観が少なくないのではないか。
つまり、羞恥心が麻痺してしまい、「恥」を恥と思わなくなる若者が増加しているのである。女性が極度に肌を露出することは慎むべき、と考えるのが一般的と思われるが、若者の一部にはそれがファッションであり、格好良いとされるのである。彼女たちは、ごく軽い気持ちで踊っているだけなのである。
以上、ジュリアナのお立ち台で踊る女性たちに焦点を絞り、何故彼女たちは踊るのか、7つの仮説を立てた。
この(1)~(7)から、ある一つのことがわかった。彼女たちと“シンデレラ”には、いくつかの共通点がある、ということだ。両者とも「抑圧」という環境の影響を受け、「解放」を求めている。
しかし、シンデレラには王子さまが現れるが、彼女たちの社会には王子はいない。ここに、「シンデレラ・コンプレックス」が生まれる。これこそが彼女たちを踊らせる原動力なのではないか、と考える。
シンデレラが義母や姉たちのもと自由がなかったのと同様に、彼女たちは様々な抑圧を現代社会から受けている。シンデレラも彼女たちも現実から解放され、変身し、刹那の陶酔に身を委ねる。異性へのアプローチ(シンデレラは直接的、彼女たちは間接的であるが)は、動物の本能に即している。また、両者とも会場の視線を集め、限られた時間と空間の中で現実逃避的に踊っている。
しかし、決定的な違いがある。彼女たちには、シンデレラのように“ガラスの靴”がない。当然、王子は現れないし、待っているのは、昨日までの「現実」と泥臭い「日常」なのである。
彼女たちのシンデレラ・コンプレックスは憂鬱だ。これが動機となって、彼女たちは過激に踊るのではないだろうか。動機なしの行動は考えられない。“理由なんてない。楽しいから踊る”という人でも、やはり心の奥底に変身して陶酔したい、という願望とコンプレックスがあるのではないだろか。
3.『ジュリアナ』現象の科学
-何がジュリアナ現象を生んだのか?
物事の結果には、必ず何らかの原因・理由があるものだ。ジュリアナ現象にも、何か科学的な根拠となるものがあったのではないだろうか。そこで本章では、何がジュリアナ現象を生んだのか、ある一つの実験から科学的アプローチをはかろうと思う。
(1)自然科学的アプローチ
まず初めに、ジュリアナ現象を巨視的にとらえるため、「カルフーンによる環境と動物の実験」を参考に分析していきたい。
この実験が興味深いのは、10×14フィートの中のネズミ80匹の小社会が、現代の複雑な社会現象と似通っている点が多いことである。
まず、力のあるものが自らのテリトリーを形成する。ネズミの社会では戦闘能力、資本主義社会の人間はカネをもつもの、であろうか。次に、その他の多数が区画C、Dで社会を形成する。この中に、常に区画A、Bのスキを狙う者がいる。
このような社会では、「メスにオスが群がる」という現象がみられる。これは、ジュリアナのお立ち台に似ている。また、ドロップアウトする者が現れる。これは、ストレスの多い現代いじめなどの社会問題に似ている。
以上のように、「カルフーンによる実験」を“現代社会の縮図”としてとらえることによって、何故“ジュリアナのお立ち台現象”が起こるのか、動物の本能的な生理から説明することができる。
(2)社会科学的アプローチ
ジュリアナ現象を生んだものには、いくつかの社会背景があるのではないだろうか。その原因と考えられるものについて、論じていきたいと思う。
(1)ジェネレーションX
ジュリアナ現象の主役は、「ジェネレーションX」(略してジェンクス)と呼ばれる若者たちである。これは、戦後ベビーブーマー世代・団塊の世代の子供たちにあたる戦後第二世代のことで、ベビーバスターズともいう。全人口の17%を占めるともいわれる。
日本では、この世代の若者が3800万人もいる。完全に自立しておらず、曖昧で、いわば人生のモラトリアム期間にある。アメリカのジェンクスの可処分所得は1250億ドルもあるという。
ジェンクスは、喪失感覚に満ちている。絶望感、孤独と不安、未来喪失感とフラストレーションに囲まれている。既製の価値観や概念はジェンクスには当てはまらない。特にジュリアナを支えたジェンクスたちは、羞恥心が少なく、解放感や陶酔感を求めていたように思える。
また、孤独を恐れるジェンクスたちは、他人と同じ行動をすることで安らぎを得る。皆がジュリアナに行くなら自分も行く。好奇心が旺盛なので、新しいものはすぐに覗いてみたくなる。トレンドに敏感で、熱しやすいが極めて冷めやすい。
『ジュリアナ』は、このようなジェネレーションXが生むべくして生んだ20世紀末の文化である。
(2)ウーマンリブ・女性解放
日本では、特に男尊女卑の傾向が強く、封建的な家制度が根づいていた。女は一歩さがって亭主を立てる、といった価値観が「美」とされ、女性は抑圧されていた。(現在の女子学生の就職難をみれば、いまだに解放されていないようにも思えるが…)
それが今では女性は強い。働く女性たち、産まない女性たち、ライフスタイルを自らで選択している。アッシー・メッシーといった家来のような男を何人も従える者、ジュリアナのお立ち台で男たちをひざまづかせる者などもいる。
女性が封建時代に受けてきた理不尽な抑圧や社会的制約から解放され、自由に振る舞うことができるような時代になったのだ。ジュリアナ現象も、その自由を謳歌する一つの形なのである。
(3)変わる「日本人」
日本人が変わった。伝統の“恥の文化”はいったい何処へいったのか。肌の露出が社会的に容認され、ヘア・ヌード本なるものが書店に溢れる。街角のアベックは、これ見よがしに接近する。
平安時代以降の、御簾の奥に秘められた存在の女性、男女の逢い引きといった情緒ある平安絵巻は、すっかり「古典」になってしまっている。今日の平成絵巻は、どこかドライで「艶」がない。
シャイで内向的といった日本人のステレオタイプは、時代感覚を失ってしまった。これは、日本の欧米化ともいえる。日本古来の伝統文化は、失われつつある。日本人は、どこに向かっているのだろう。
4.結びにかえて
~ジュリアナが示唆する未来~
日本古来の伝統「恥」の文化は、失われつつある。女性は封建社会のしきたりから解放され、ある程度の自由を得た。そして、次代を担う新しい世代は、不確かで曖昧な新人類である。
バブル景気のはじけた後の、不況の社会に生きる日本人。“豊かさ”を実感できない生活感。繰り返される哀しい事件の連続。地球規模でも、冷戦崩壊後の世界は、模索状態にある不確かさ。際限ない人間の欲望によって続けられる開発と環境破壊。未来へのおぼろげな不安の中で、一抹の解放と陶酔を求めた人間で、ジュリアナは埋め尽くされていた。
時代は動いている。時は流れる。古代、近代から現代、そして「ポスト・モダン」へ。今や、「ポスト・ポスト・モダン」とまでいわれるようになった、“複雑”で“不確か”な時代である。
そのような時代背景と社会環境の産物としての『ジュリアナ』は、華麗に一世を風靡して、太く短くその生涯を閉じた。鮮やかなまでに記憶にくっきりと残ったその情景も、やがて時間の経過とともに「風化」されてしまうかもしれない。
“『ジュリアナ』がなくなった”といっても、多くの人にとってそれは悲しむべき事件ではなく、単なる一つの事実に過ぎない。だが、ジュリアナは多くの遺産を残した。現代の複雑なストレス社会を浮き彫りにし、その縮図として様々な人間模様と感情が交錯した不思議な空間は、姿を消した。
時代から時代への変遷という歴史の中で、20世紀末の数年間の出来事は、この時代の歴史的「モニュメント」として、未来へと続いていくのであろう。