“臓器移植-あなたはドナーになりますか”
『責任ある当事者倫理』
俵 典和
[1]はじめに
「君達日本人は、一つの端から反対側の端に行ったり来たりしているように見える時がある。君(達)は何か絶対の白黒の答えを求めているように見える。・・・しかし、このような「軸型の」思考方法により、医者・法律家・学者といった人達は臓器移植に対して好意的な立場がとれなくなっているのかもしれない。」(注1)。
実はこれ、「日本では倫理的に問題だと言う理由で現在脳死者からの臓器移植は行なわれていないが、どう思うか。」という私の質問に対して、ドナーである米国人のD.D.さんが私に書いてくれた返事の一部である(インターネット上)。私はこの返事に対して、どう返答していいか考えた。未だ完璧な返事は出来ているとは思っていないが、このD.D.さんの返事の中身を深く考えてみたいと思っている。
[2]基本的な考え方-目的・方法
臓器移植についての議論は、次の二つに分けられよう。一つは、臓器移植の是非という客観面であり、もう一つは、自分は実際にドナーになるのかどうか(その反対にレシピエントになるのかどうか)という主観面の話である。しかし私はここで客観面の一般的・評論家的議論をしようとは思っていない。では何を議論するのかと言えば、昨今の臓器移植の議論と事実を取り巻く社会的・思想的環境であり、その環境の中における自分という人間の態度についてである。
本稿の目的は、技術的・専門的見地から臓器移植を論ずることではなく、臓器移植問題の本質を当事者的視点から明らかにすることにある。その方法として本稿では、基本的には「思案」という方法が採られたが、現実離れの危険性の回避、議論の深みを増すという趣旨で、国境を越えて国内外の人々と、電子ネットワーク(インターネット)上で実際に議論することも試みた(注2)。国内の人とは実際に会って議論を試みた。そうすることにより、自分の考えの盲点を発見し、自分の立場をより明確にし、互いのインタラクションの中から新たな「何か」を発見することが出来ると考えたのである。
[3]臓器移植問題の現状
日本で臓器移植が社会問題となり出したのは、80年代半ばであり、そのころ私はまだ小学生の高学年であった。ところで、臓器移植はどういう理由で「社会問題」となったのだろうか。厳密性を欠く箇所も若干あろうが、簡単にまとめてみたい。
医学の発展により、脳の機能はストップしているが、人工呼吸器等により身体の臓器は正常に機能しているという「脳死」の状態が出現した。この脳死の人の身体は生き生きと生きているのであり、脳死の人間の中で生き続けている臓器を他の人のために役立ててもいいだろう、という論理で、世界では脳死の人からの臓器移植がされるようになった。今では、多くの先進国では通常医療となっており、ドナーであるL.E.さん(ジャーナリスト)が私との議論の中で言っているように、「臓器移植は、素晴らしい生命を救う治療」(注3)であると考えられている。
しかし、この臓器移植に対して様々な疑問や反対の声も聞かれるようになった。ここで、大事なことは、一般市民レベルにおける臓器移植反対に関する主要な議論の仕方が、日本と欧米(米国)ではかなり違うということである。以下、臓器移植に基本的反対の立場を取る日本と米国からの声を拾ってみたい。
私と同じ大学に通うある友人のY君は、なぜ反対かという私の質問に対して、「倫理的によくないし、社会的に認められていない」と答えている。それに対し、私は「倫理的、社会的、とはどういうことか」と尋ねると、彼は「人間は機械ではないし、なんか良くない感じがする」と答えた。
一方、基本的には臓器移植反対の立場をとるB.M.さんは、私との議論の中で、反対する根拠を、「臓器市場」なるものが過度に発展して、社会的に弱いロウアー・クラスの人々の臓器が、富裕階層の人々に安易に利用される怖れがあることに求めている。彼は「もし人々が脳死者からの臓器移植をあたり前のように考えるようになったら、これらの臓器の市場を生み出す環境を整えてしまうことになるだろう」(注4)と述べている。さらに彼は、その根拠として次に述べるような非倫理的な事実を挙げてくれた。
これは南アメリカでの話しである。赤ちゃんを持つ貧乏な母親が、自分の子供がより裕福に育ててもらえることを期待して、自分の子供を売ってしまった。しかし、現実は、売られたこの赤ちゃんは、臓器移植のドナーとして買い手によって育てられていたのである。
以上、米国と日本における臓器移植反対の声を紹介した。このように両国では、臓器移植反対の声はある。日本は臓器移植反対の国で、米国は臓器移植賛成・推進の国である、という論評がよく聞かれるが、誤った認識と言わねばならない。両国には、それぞれ様々な意見が存在しているのである。ただ、断定は出来ないが、それぞれの声は、日本と米国における議論の仕方を代表していると言える。私は、今回の国境を越えた様々な人間との議論を通じて、日本における議論が、概して一般的、抽象的、観念的、婉曲的であるのに対して、米国における議論は、個別的、具体的、論理的、直接的であるように感じられた。
[4]「あなたはドナーになりますか」の問い掛けに対して
(4-1)アメリカでは
米国では、運転免許を取得するときに、ドナーになるかならないかをはっきりさせることが求められている。ドナーになる人は、「ドナー・カード」というものを運転免許証に付け、ドナーにならない人はそれを保証する文章を書かされるようになっている(州によって多少異なる)。日本にはそのような制度が無いので、私を含めほとんどの日本人は、自分がドナーになるかどうかという問題など真剣に考えたことがないであろう。私は、実際に米国でドナーになっている人やそうでない人の思いや考えを率直に聞いてみる必要を感じ、実際にネットワーク上で聞いてみた。
実際にドナーである米国人ジャーナリストのL.E.さんは、私とのインターネット上の議論の中で次のように述べている。「運転免許証を取得した時に、ドナーの特別カードに必要事項を書きました。それは別におかしなこととも、怖いことだとも思いません。他人のために出来ることの一つだと思っています。」と(注5)。
さらに、ドナーのD.D.さんは、「私は、私の一部分が(他の)生命を救ったり、延命したりすることに貢献できるという事実が好きなのです。(ドナーである)私は他の人間に運命を全うするチャンスを与えることになるかもしれないのです。(カッコは筆者が加えた)」(注6)と述べている。
一方、絶対にドナーにはならない、そしてレシピエントにもならない、という人もいる。私との電子上の議論に参加してくれたB.M.さんはその一人である。彼は、いかなる状況においても、自分の臓器が移植に使われたり、死の際に取り出されたり、製薬会社に売られたりすることがないということを保証する書類にサインしているという(注7)。
(4-2)私の態度-「責任ある当事者倫理」
私自身はどうであろうか。正直言って、これまでこのようなことを真剣に考えたことはなかった。しかし、私は今それを真剣に、そして正直に考えようと思っている。なぜか。理由は大きく分けて二つある。一つは、私が、日本でも脳死者からの臓器移植が行なわれるべきであると考えているからである。臓器移植を肯定するのであれば、当然私自身が脳死になった場合のことを想定し、自分がドナーになるのかどうかをはっきりさせねばならない、と考えるからである。後に述べるようにこのような態度を私は「責任ある当事者倫理」と呼んでいる。それに対して、現在の日本における人々の態度は、上の例で言えば、臓器移植を肯定しているのにもかかわらず、自分がドナーになるのか、レシピエントになるのかについて関心がない、というものではないだろうか。あるいは、臓器移植を否定しておきながら、実際に臓器移植を必要としている子供や人たちの個別ケースに関する議論を避けようとしているように感じられる。私はこのような態度を「無責任な第三者倫理」と呼んでいる。
二つ目の理由は、ドナーになるかどうかを考えることにより、より「生命」というものに対して正直に向き合えるようになれると考えるからである。もっと言えば、自分という「生命」との正直なコミュニケーションをとことんまでする絶好の機会だと思うのだ。
(4-3)私がドナーになる時に考えること-「三つの信頼関係」
結論から言えば、次に述べる三つのことが満たされれば、私はドナーになりたいと思っている。しかし、同じことではあるが、次に述べることが保証されなければ私はドナーにはなりたくない、と考える。念のため強調しておくが、以下に述べることは、あくまで私自身がドナーになるかどうかというレベルの議論であり、他の人もこうすればいい、という議論ではない。では、私が今考えていることを以下に述べてみたい。
第一に、私は臓器を受ける人(レシピエント)とある種の信頼関係の存在が保証されていることを願う。せっかく私の臓器を受け取った人が、大切に人生を過ごさなかったりしたら、私はいやである。前もって、自分の臓器のレシピエントとなる人が分かっていれば脳死になる以前にその人とのコミュニケーションをとることが可能であり、この問題は解決するであろう。しかし、実際には、自分が脳死になった後に、医学的に最も適当なレシピエントが選択され、私自身がレシピエントの選択をする余地はほとんどない。では、私はこの問題をどう乗りきるのか。正直言って、私にとって明確な答えは今のところなさそうだ。ただ、レシピエントの方々は皆、生命を、人生を大事にする人間であることを信ずるのみである。
第二に、臓器移植があくまで「最後の手段」であることが保証されることを求めたい。これは、医者・警察とドナーの間の信頼関係でもある。なぜこのようなことを求めるかと言えば、臓器移植が進んでいる米国では、臓器移植が一種のビジネスになっていく危険があり、また他にまだ治療法があるにも関わらず、儲けを狙う医師が安易に患者を脳死にさせてしまう危険性も存在しているからである。インターネット上の私に対する返事の中で、米国人のJ.D.さんは次のように述べている。「誰か他人の死によって利益を受ける人達(例えば、臓器移植によって手術代・薬代等をもらえる医師など)にひとたびインセンティブを与えれば、臓器から利益を得ることを望んで、病状の深刻な患者に対する治療を止めさせるような圧力が生じる危険が常に存在する。」(注8)。このような危険は、医師からのみもたらされるものではない。さらに、J.D.さんは次のように言う。「(あなたが交通違反で警察に止められた場合)もし警察が、あなたがドナー・カードを持っていることに気がついたら、その警官はあなたに交通違反者に対する呼びだし状を交付しないであろう(日本的に言えば、減点措置にしないで見逃してくれるだろう)。」(カッコは筆者が付けた)(注9)。実際は警官に聞いてみないと真意は分からないが、ドナーの人は交通事故を起こして脳死状態になっても、臓器提供という好ましいことが出来、別の命を救うことが出来るのだから、安全運転を強制して脳死にさせる機会を減らす必要はない、という倫理が警察側に働いているのであろうか。
これはあくまで米国の事情である。しかし、もし日本にこのような制度が導入された場合、日本でも同じような危険が生じる可能性は存在する。私は、このような危険があきらかに存在しているような状況の下で、ドナーになる意思はない。
第三に、ドナーになることについての「自分」との信頼関係だ。これはちょっと難しい。どういうことかと言えば、本当に自分が納得をしてドナーになっているかどうかという問題だ。自分自身とのコミュニケーション(思考の極限状態)が十分にされているかという問題とも言えよう。大学図書館員のI.M.さん(女性)は、「あなたはドナーになりますか」という私の質問に対して、次のような返事をしている。「私はドナーになってもいいと思っています。ただ、その時になったら分かりません。」。ここで「その時」というのは、日本でもし米国のようなドナー・カード制度が導入された場合に、自分がそれに登録するかしないかを決める時を指している。
これは私についても言える。たとえ、上の第一・第二の条件(レシピエントとの信頼関係と、医師・警察との信頼関係)が保証されたとしても、この第三の条件(自分との信頼関係)が満たされなければ、私はドナーにはならない。例えば、いろいろな臓器が欠如した状態で葬式になってもいいのか、という類の自分自身への問い掛けである。
以上この「三つの信頼関係」こそが、私がドナーになることの正当性の源泉であり、前提であると今は考えている。
繰り返しになってしまうが、人によってドナーになるかどうかの判断基準はまちまちである。基本的にこれは個人の問題であり、組織や社会や国家が決める筋合いのものではない。例えば、インターネット上の私への返事の中で、D.D.さんは「担当官は私にドナーになるのかどうか尋ねました。私はほとんど何も考えずに「はい」と答えました」(注10)と述べている。D.D.さんにとっては、私の言う「三つの信頼関係」というのは、あまり関係がないことなのかもしれない。しかし、我々は個々人の態度を十分尊重せねばならない。
(4-4)私はドナーになるのか
では現状はどうだろうか。
今日本では、米国でのような運転免許証のドナー・カードのような制度や、臓器市場のようなものは存在していない。従って、私がドナーになるのかどうかという議論は、あくまで架空的なものになってしまう。例えば、上記の「医師・警察との信頼関係」と言っても、実際に(4-3)で述べたような危険が日本にも発生するかどうか、それらの危険の防止が十分に保証されるのかどうか。これらはあくまで予測のレベルである。
「レシピエントとの信頼関係」のレベルに関して言えば、私は基本的にこの存在を肯定してよいと思っている。
では、「自分との信頼関係」のレベルについてはどうだろうか。正直言って、この原稿を書いている今でも、自分とのコミュニケーションはまだ継続中である。
[5]「無責任な第三者倫理」にサヨナラを
日本では、臓器移植に対しては否定的であるような雰囲気がある。どういう訳か、脳死は「死」と認められず、臓器移植を必要としている人は、皆海外に飛ぶ。しかし、このためには莫大な金がかかり、貧乏な人で募金で必要経費が集まらなかった人は、結局臓器移植の機会を得られずに死んでいく。ここで注目すべきは、臓器移植の反対を唱えている人は言ってみれば第三者であり、命掛けで移植を求めている人ではない。日本国内にも、移植を求め、かつ臓器提供を希望している人は多いはずである。にもかかわらず、関係のない多数者が移植を反対して、臓器移植は倫理的によくないという社会通念があるという理由で、彼らの望みはかなえられないのである。
これは、恐ろしいことではないか。確かに、臓器移植に反対だという意見は数多くある。しかし、臓器移植に賛成の人もいるし、臓器移植を生きるために必要としている若い人もたくさんいるのである。そのような人達の気持ちを無視し、ただ評論家的に「臓器移植は倫理的によくない」と発言し、臓器移植を必要としている個別ケースから目を背ける人間は一体何を考えているのか。私はこのような態度・倫理観を「無責任な第三者倫理」と呼ぶことにしたい。
中にはこのようなことを言う人もいる。
「ここは日本なんだから、日本人のお前は、臓器移植はよくない、という日本的考えに従うべきだ。アメリカはアメリカで、日本は日本だ」と。一見まともに思えてしまうが、言語道断の発想である。個人の尊厳を唱え、個人の幸福追求権、解釈上、個人の自己決定権を唱えている「日本国憲法13条(注11)」にかけても、私はこのような無責任な集団の圧力とは厳とした態度で望むつもりである。
私は思う。今一番必要なのは、臓器移植の是非を一般的・評論家的に議論することではない。実際に臓器移植を必要とし、また臓器提供を望んでいる人達が、安心して臓器移植という機会を受けられるシステムを創ることである。いかにして臓器市場の発生を防止できるか、本人の同意はどうするか、医療コストはどうするか、というようなもっと具体的・政策的議論を行っていくべきである。
私は、生命「倫理」という言葉で本当の問題と向き合うのを避けているのが現状ではないか、と思えてならない。多くの人達が使っている「倫理」という言葉は、「無責任・第三者的倫理」でしかないのではないか。「倫理」というマジック・ワードが、個人の尊厳・権利の制限の根拠として濫用されているきらいさえある。それは、丁度、戦後直後、人権制約の根拠として「公共の福祉」という言葉(注12)が濫用される危険があったのと酷似している。現在では、このような危険を回避するための憲法解釈上の法技術として、「公共の福祉」とは、人権と人権との衝突の調整原理であるとされている。決して、全体の利益や公共の利益ではない。
これと同じように、いわゆる「生命倫理」というものの中身を個別具体的にほぐしていくことが求められる。そして、私はそれを私が唱える「責任ある当事者倫理」というものに求めたいのである。
[6]まとめ-「責任ある当事者倫理」を
本稿で私は、国境・文化を越えた様々な人達の考え・思い・経験等を聞き、臓器移植という問題に対する自分のそれを吟味し、自分自身の態度を示してきた。これらのインターネット上の議論、人とのコミュニケーションを通じて感じたことは、臓器移植という問題と言っても、実に様々な考えや思いが存在しているということである。このような臓器移植といった問題を、「是か非か」というレベルに圧縮してしまうことは、ディベートならともかく、現実世界では不適切なアプローチであると思う。さらに、本稿では、日米における議論の仕方の相違などに着目して、日本におけるいわゆる「無責任な第三者倫理」を批判し、「責任ある当事者倫理」の重要性を強調してきた。「無責任な第三者倫理」に対する批判は過度になってしまったきらいがあるが、実はこれは、昔の私自身の態度に対する猛烈な批判でもあるからである。
私は、日本において臓器移植を実施することは肯定している。そして「三つの信頼関係」の存在という条件の下に、私自身ドナーになってもよい、という態度をとっている。
本稿が、冒頭で示したD.D.さんの返事に対する回答になっていれば幸いである。
(以下は、制限字数には含まれない)
[脚注]
(本論文では、インターネット上の米国の方々との議論の中における米国の方々の発言内容を多く引用している。本文では私が勝手に日本語に訳したが、厳密を期すため、彼(女)らの発言内容の原文を[脚注]に示すこととした。)
(1)原文は次の通り。
「Sometimes I think that y'all Japanese seem to swing one extreme to the other. You seem to require black or white answers, something absolute. ...but this kind of 'polar' thinking may also be what balks your doctors/lawyers/scholors from acting favorably towards organ donations.」
(2)インターネットとは国境を超えたコンピューター・ネットワーク・システムである。今回は、このネットワーク上での意見の交換や質問と返答のやりとりを行なった。これは、いわゆる通常の一対一の電子メールとは異なり、多くの人間(数百人)が情報を共有し、一斉に参加しているというものである。例えば、私があるテーマ(例えば、臓器移植)について議論を持ちだすと、このネットワークのメンバーに伝わり、それに関心を持った人から返事や反論等がすぐに私のところに返ってくるようになっている。そして、それに対して私がまた返事を書いたり、議論をもちかける。この一部始終は全てのメンバーが共有できるようになっている。もちろん他のメンバーに共有されたくない場合は、通常の一対一の電子メールを使えばいいのである。本論文で引用した言葉は、この公開ネットワーク上で話し合われた内容から拾ったものである。
(3)原文は
「...organ transplants are usually considered miraculous, life-saving treatments...」
である。
(4)原文は次の通り。
「If we push the populouce towards accepting for granted the transplanting of organs from "brain dead" donors, we set up the environment for a market of these organs.」
(5)インターネット上の原文は、次のようである。
「I filled out a special card when I got driver's license. It didn't seem at all strange or scary... just one of the things you can do for other people.」
(6)原文は次の通り。
「I just like the fact that a part of me is contributing to save a life or prolonging a life. ...I'd be giving that person another chance at fulfilling his/her destiny...」
(7)B.M.さん曰く、
「I specifically drew up a document, specifying that under no circumstances shall my organs be used for donation, ...not be removed from my body at death and sold to pharmaceutical companies.」
(8)原文は次の通り。
「One problem ...is that, once there is an incentive for someone to benefit by someone else's death(doctors paid fees to do transplants, for example), there is always the danger of improper pressure to end treatment of a seriously ill patient in the hope of 'harvesting' the organs.」
(9)原文は次の通り。
「...if a policeman sees your donor card, he won't give you a ticket.」
(10)原文は次の通り。
「They asked me if I could become a donor, and I automatically said yes.」
(11)「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」(日本国憲法第13条)
(12)日本国憲法第12条・22条・29条
参考文献・資料
(1)インターネット上における私と「ichinet」のメンバーとの会話・議論をプリント・アウトしたもの。膨大な量になってしまい、またプライバシーの問題もあり、これを本論文に添付することは出来ないが、ほんの一部だけ、参考資料として添付することとした(別紙参照)。
議論協力者(プライバシー保護のため、登場人物の名前はイニシャルのみを表記した。)
(1)インターネット上の「ichinet(米国のカリフォルニアを中心とするある社会組織の会員によって構成されているネットワーク。私もこれに参加している。)」のメンバーの方々。私との議論に積極的に参加して頂いた方を以下紹介する。J.D.さん、L.E.さん、C.G.さん、B.M.さん、S.S.さん、D.D.さん。
(2)I.M.さん(大学図書館員)