“質のいい医療とは”
~医療難民からの脱出~
小川奈保美(創価大学通信教育部)
(1)プロローグ
-ここに、一冊の本がある。
タイトルは、
「希望としての精神医療-宮田国男の記録」となっている。この本は、今は亡き精神科医宮田国男氏が、丹頂鶴の生息地である釧路郊外の鶴居村に『つるい養生邑』という一つの理想と希望の医療コミュニティを、つくり上げていく過程の記録である。
彼は言う。
『癒すことが生活であり、また生活そのものが、癒しである。「病む」とは、どういうことか。「病む」ことも、生きることの、一つの表現である。』
と。これは、宮田氏の大きなテーマの一つであった。病むことを、ネガティブなイメージから、ポジティブなものへと変化させなくてはいけないということを、常に提唱し続け、ともすれば、差別と偏見の対象でしかなかった、精神病や神経症の患者を、社会と共に生かしきれる場を作ることが悲願であった。
-しかし、これは、よくある理想論、ペンの上だけの言葉遊びだろうか? -答えは、ノーである。私自身が、神経症を患ったおかげで、自らの身をもって、「希望としての」「自立としての」医療を、『つるい養生邑』から受け、そこで素晴しい体験を得たからである。
私、筆者は、十年という月日を病に苦しめられて過ごし、数え切れない病院の門をくぐった。そして、そこで、傷つけられ、冷淡な扱いに泣き、医療そのものに対する、激しい憤りを感じ続けた。そうして、長い旅路の果てに、『つるい養生邑』の理念にたどりついたのである。
(2)ボランティアは病を救うか
テレビのニュースで、カンボジアやソマリアの地の悲惨な子供達の姿を目にするにつけ、「何とか手助けしなくては」と人々は感じるはずであろう。そうして、数多くのボランティアの募金や救援物資が送られていく。
私は、その光景を見るにつけ、「本当の自立」「本当の援助」について考えさせられている。「そんな事を言っても、実際に餓死していく子供たちに、日本円で、たった○○円でミルクが与えられるんです。」と、声高に叫ぶ人達に、私は素直に“そうね”とは言えない。
なぜなら、私自身が長い間、病に打ち勝てず、重度の薬物中毒(精神安定剤、抗うつ剤等)に苦しみ続けたのは、医師の、あいまいな同情にあったとも言えるからだ。(もちろん、弱さは私のせいだが)。『養生邑』に出会うまでの私は、生まれ育った札幌の地で病院を転々としていた。どこの病院も、カウンセリングなどなく、ただ投薬するのみで、その薬は増えることはあっても、減ることはなかった。二十代前半の私の体は嫁入り前だというのに、あらゆる副作用に悩まされ、それを申告するたび薬は増えていくのだった。生理は止まり、不正出血がダラダラ続く。顔中に吹出物、そしてそのくせ顔色は不気味な程血色がなく、体温も低く、血圧も低かった。カゼもほとんどひかず、そのくせ感染症には、よくかかった。体中が薬にコントロールされている…。それが、時折、ゾッとする程恐かった。もし、無人島に、一人で流されても、この薬なしでは生きて行けないと思った。
結婚前に、これでは、一生母親にもなれないと悟った私は、新聞等で有名な、A医師の元に相談に向かった。何とか、子供もいずれは産んでみたいんです、と話したが、答えはあいまいなまま、薬のみが投与された。結婚して2ヶ月、A医師の治療らしい治療もないまま、急な転勤が決まり、私は釧路へやって来た。しかし、釧路の病院では、更に私を打ちのめす“ホルモン剤投与”を、私には告げずに行なった。私は、びったり生理が止まり、三ヶ月で十五kgも太って心身共に追いつめられてしまったのだ。私は、再びA医師の元へ戻り、釧路から札幌への月一回の通院をはじめた。お金も時間も山程必要になり、病気は悪化する一方だった。
A医師は、同情の人、ボランティアの人であった。人に哀れみを感じ、痛みを共有しようとする。私が泣くと、可哀想にと抱きしめてくれる。痛いと言えば薬を増やしてくれる。そうして、私は、ズルズルとA医師の同情や哀れみに引きづられ、一緒に泣いては薬をもらう、“完全受動態”の医療にはまってしまった。もう、自分の力では、何もできない。
A医師が、私を可哀想がってくれる限り、私は、パンやミルクをねだるだけの、やせこけた難民でしかなかった。
そして、その生活には、自立も希望もなかった。
『ボランティアは、病気を救うか?』
-人徳の医師と、悪態の医師。それは、もしかして、どちらも悪かもしれない。-そう思うようになったのは、『つるい養生邑』との出会いが、きっかけであった。
(3)なぜ、治りたいか。
結婚四年目の春、私はまだ、ダラダラと札幌へ通院を続けていた。゛五時間待って五分の診療″を、地でいくくらい人気者のA医師はいつも忙しく、更に患者の痛みを共有する彼は、いつも顔色が悪かった。それでも、医療難民の私は、受動態の日々を繰り返すのみで何の変化もなく、すでに薬を切らせないほどの依存性と副作用に苦しめられる日々であった。更に婦人科もバランスを崩しきって、いくつかの病もでき、子供は全く望めないまま暗雲たる日々を過ごしていた。
そこへ、とんでもない出来事が起こった。実家の母が脳内出血で倒れ、植物人間になってしまったのだ。実家は、家族のゴタゴタが表面化し、私は、札幌への通院をタラタラと繰り返すことも、もう許されなくなった。婦人科の病も悪化し、今、子供を産まないと、手術だと言われ、私は追いつめられて、地元の病院を再度検討した。そうして、めぐり合ったのが、『つるい養生邑』だった。
故宮田国男医師の同朋の友であった中島医師に対面し、これまでの経過と、子供を産みたいという話を私は語った。白衣を着ていないセーター姿の中島医師は、表情を変えず、私を見て言った。
「では、今日から薬を全部やめましょう」静かで力強い言葉だった。
「でも、先生!」私は、あわてて反論した。
「今まで、何度も試みました。でも死にそうに苦しくなってだめでしたから!危険すぎますよ!徐々に減らして行くのはできませんか?」中島医師は、軽く微笑んだ。
「……。今まで徐々に減らして、できましたか?中途半端で楽にできる方法はありませんよ。あなたの話は、とても理論に叶い、しっかりとした決意でした。その大目的を忘れなければ、あなたはできると思います。その為に、僕は力を貸してアドバイスします。」
私は、驚いた、何という環境の変化であろうか!私という゛難民″は、中毒症状という゛生命の危機″や゛飢え″を乗り越えて、手にクワを持ち立ち上がりなさい、と自立への希望と選択を与えられてしまったのだ。そして、それは私が願ったものであり、私が闘うべき恐怖でもあった。
゛今これを逃げたら、一生このままだ…″
私は、もう嵐を越えるしかなかった。しかしそれはもう、孤独な闘いではなく、明るい希望へのチャレンジだった。゛医師が、一緒に闘ってくれる…″これは私の最大の武器であった。
嵐は、すぐに私を襲った。まるで麻薬中毒の禁断症状のように、体中がコントロールできなかった。七転八倒して激しい眼痛やおう吐、下痢などの痛みや心臓のどうき、不安、パニック状態の自分と闘った。ある大雪の日、私はついに「もう死んでしまう」とギブアップ、薬をもらうため、タクシーに乗った。
中島医師の元へたどりつき、息も絶えだえに「先生、もうだめです、死にそうです」と訴えた。中島医師は、いつも通り冷静に私の脈を取り、
「本当だ。これは、かなりだね。」
と答えた。
「では、薬を?」そう、あえぐ私に、彼は、ぴしゃり!と言い放った。
「今、君は、感情で物事を決めようとしているんだよ。君が、ここへ来て、子供をつくれる体になりたい、と言ったとき、病気の母のため、そして長年苦しめてしまった夫のためにも頑張りたい、という大きな目標があっての決意だったよね。その時の君の理性は今、失われているんだよ。今は、ただ苦しみから逃げ出すための衝動が薬を求めているだけなんだ。もう一度言うよ、
゛今一度、思い出して原点に戻るんだ!何のために治りたいのか!?″」
私はハッとした。「自分の弱さ」につきつけられたもの、それは、もう一方の、「自分の希望」だったのだ。何という説得力だろう。私は、結局、今まで治ろうとしていなかった。治してもらおうとしていただけだったのだ。
中島医師は淡々と語り続けた。決して優しさも愛情もなく同情もなかった。しかしながら、その一言一言は、おでんのように、じんわりと心に染みる。
゛君の今までの闘いを、無駄にしてはいけないよ″という思いが伝わってくる。それは、何と表現すべきか。彼の「希望としての医療」に対する熱意そのものであった。深入りはしない、同情もしない、あくまでも患者として、゛感情移入″をしない。それは、A医師と全く対照的と言えた。しかし、今、私の中に再びパワーを送り込んでくれたのは、間違いなく、中島医師であり、私のチャレンジの日々は再び始まった。「希望」と「確信」は痛みを越える。「不安」と「あきらめ」は、体をむしばんでいく。私には、勝利への決意があった。
(4)質の良い医療とは
~エピローグ~
その後、中島医師と私の闘いは成就し、私は完全に薬から解放されて、もうすぐ三年を迎える。あの苦しみに耐えられた私は、神経症の症状にも耐えていけた。そうして、薬を飲んでいても耐えられなかった事に、薬なしでもチャレンジできるように強くなっていったのだ。
だが、薬害は、思いのほか深く私に残った。まず、体温が上昇した。血圧も上がった。抵抗力が低下し、カゼやその他の菌をすぐキャッチしてしまい、自然治癒力が全くなくなっていた私は重症になり仲々治らなかった。薬をやめて十ヶ月後に授った子供も育たず、胎内で死亡してしまった。しかし、私自身は、強くなっていった。逃げないで闘う事を知ったのだ。
私は、昨年の夏、「心理学」を学び、単位を取ったが、スクーリングでの授業の間、感動し続けていた。以前の自分は、この手の内容の重いテーマに接するのが、とても恐く不快で、現実逃避の心が常につきまとっていた。教科書の一ページ目をめくってから、課題リポートは何年も進まなかった。しかし、病との闘いを通じて私は、゛立ち向かう強さ″を知った。ストレスや病にぶつかったとき、必要なのは、それを遠ざけ、自身の身を守ることではなく、それを乗り越えていこうという前向きな自律の心であろう。誰もが、最初は、一つの病を治すため薬を飲む。しかし、それが長期に渡ったとき、病を治す以前に、その薬物をまず、体の中から追い出す闘いを要求されてしまう。
故宮田国男氏の目指したものは、単に薬を排して自然治癒力を引き出すことではなく、社会や生活全般をトータルに相互作用させていくことであった。そして「希望」を与える事。
これからの、「質のいい医療」とは、患者を自立させ、自律させ、希望を与え、目標を明確にし、指針を示していくことではないだろうか。医師は患者のトータルコーディネーターであり、また変に患者の生活に深入りし、「ナァナァ」になってもいけないと思う。医師は医師として、患者は患者として、何をすべきか。それを話し合い、お互いが努力して始めて、良い医療が成り立つ気がしている。
少なくとも、゛次の配給″を待ち望み、薬袋の束を家に持って帰るだけの『医療難民』を、これ以上増やしてはいけない、と思う。
私のお腹には今、元気な赤ちゃんがいて、春に産まれてくる。希望と決意は、全てを勝利させてくれたのだ。そして、私の中には、今でも中島医師の言葉が励ましとなって残っている。それは、
『You can do it!』
という力強い響きとなって私の勇気を産み出し続けている。