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“質のいい医療とは”
対話の医療

大高 洋平(慶應義塾大学医学部)

 

 私は、一人の医学生である。医学の勉強にもそれほどは入り込まず、また一般社会との距離も近い。医療と社会の中間としての存在である。さらに、幾つかの怪我をして病院にお世話になった事はあっても入院したことはない。現場に密着した考えというよりは、より傍観者としての視点で質のいい医療を考えていく。
 現代において、人々の最大の関心事の一つに、健康というものがある。初詣において、その年の健康を願う人も多いであろう。その健康に反する状態が、病気である。言い換えれば、普段何気なく生活している中で、その状態から逸脱した時、病気になるのである。病気の概念は、単に体の一部の疾患ということにとどまってはいけない。
 例えば、自分の認識できない疾患が偶然、診断で発見され、病院に入院することになったとする。その事は、普段の生活では快活であった精神が、病むという可能性を十分に秘めている。誰しも、病院に行くということ、自分に疾患があると認識することにより、精神的に病むからである。
 要するに、疾患を持ち病院に向かうこと自体により、社会の中からの脱落感、経済的な不安、将来の見通しの絶望、更には死への恐怖と様々なことが、沸き上がってくるのである。これら全てを包括したものを、病気というべきなのである。病気は、疾患以上のものなのである。
 さて、医療とは、その病気を扱っていくものである。扱うものの概念から考えて、疾患のみを対象とするのでは、医療として片手落ちである。しかし、今日の医療を眺めてみれば、病気を対象にしているとは言えまい。患者が病院を訪れた場合、診断を行い、その疾患の原因を探り、治療を施し、予後を見守るということになる。個々の患者の社会的背景、環境を考慮に入れることなく多くの治療は、行われる。医師は、患者を診ることなく、疾患のみを診ているということになる。
 極端に言えば、疾患という一つの商品を扱っているとも言える。実際、大病院などの外来では、患者の顔もしっかりと見ずに、検査漬けのデータを用いて、医療を行っていることがあると聞く。
 具体的に考えてみることにする。ある人は、末期の癌を患っていたが、手術の前にどうしてもやっておきたい事があるとしよう。それには、二週間の時間が必要だと患者が要求した時、医師は手術を遅らせる事による危険性を患者に伝え、患者が必要とする情報を与えなければならない。その上で、患者がその危険性と自分の利益とを秤にかけて方向を決定する。これが、求められる姿であろう。
 医師の一方的な考えで全てが行われれば、その人は、自分の健康のために生き甲斐を失いかねない。世の中には、健康を犠牲にしてまでも何かを成し遂げようとする人はいくらでもいるのである。医師に、その生き甲斐までも奪う権利はないのである。
 今まで述べてきたように、病気に対する医療というものを考えた場合、患者を理解する意味で、対話の必要性が問われることになる。
 この意味での対話の必要性が大きく、かつ実際に実践している一つのよい例として注目を集めているホスピスが挙げられる。
 ホスピスとは、末期の患者を、死への看護ではなく、死に至るまでの期間、積極的に生きることができるように援助する医療である。そこにいる人々は、死と少なからず対面している。ホスピスでは、そこから生じるトータルペイン、つまり身体的な痛み、精神的な痛み、霊的な痛み、社会的な痛みに対して全人的治療をすることが求められる。治らない方々の死を看取るわけであるから、当然心の支えとなるものが、より必要不可欠なものになるわけである。
 このため、ホスピスでは、より対話が豊かにできるように一般の病院には見られない牧師という存在を見ることができる。患者の身体的な痛み以外の痛みを少しでも解消するのを助けるために必要な存在なのである。特に死の恐怖を乗り越えるためには、時には宗教的な力も必要でありここでも牧師という存在は重宝される。
 ホスピスでは、この他に社会的痛みを取り除いてあげなくてはいけない。死の前というのは、その人の歩んできた人生の総決算の時であり、人それぞれ様々な形の問題が生じてくることが多い。その問題を解決するとき、患者一人では重荷となってしまい痛みに変わることもある。周りの医療関係者が支えとならなくてはいけない。
 そのためには、患者の心やその立場さらには、その家族の心や立場まで十分理解をしておかなければならない。理解のしていない人間が御節介をやいても害を及ぼすのみである。当然、患者と密接な関係を築いていくのに対話は必要である。
 対話の実践ということにおいてホスピスはかなり理想の姿であり、これからますます増えていくことが望まれる。
 これまで、患者を単に疾患を持った商品として見ずに、全人格的治療を行うためには、どうしても対話が不可欠であると述べてきたのであるが、ここで医療が、患者との共同作業であるという論点から対話の必要性を見てみたい。
 医療では、医師がもっとも適当と思われる治療を患者に対して行う。この際、患者の協力なしでは、医療という一つの仕事は完成しない。
 簡単に言えば、渡した薬を飲んでいなかったり、約束事を守ることを患者がしなければ医療は片手落ちになってしまうということである。一般のサービス業と異なり与えた物を受け取るというだけではなく、医師と患者の共同作業なのである。
 根本的にいえば、病気というのは、患者の自然治癒力を利用というか、そのもの自体で克服するのである。よって医療は、その自然治癒力を最大限に発揮できるようにするのが、役目とも言える。そこで、最大限の力を引き出すために、医師と患者の二人三脚が要求される。二人三脚においては、互いに打ち合わせをし、その通りに実行できればうまくいく。医療も同じである。互いを理解するために、対話という紐を使った二人三脚が要求されるのである。
 ここまで、対話が殊更、強調されてきたが、医療が対話を中心に行われていると言いきるわけにはいかない。技術というものが医療にとって欠くことのできないものとしてある。「21世紀へ向けての医学と医療」という文部省特定研究の中のアンケートでも、望ましい医師像として複数回答で多い順に「権威はそれほどでもないが、気安く診て貰える医師」(79.1%)「愛想は悪いが、技術の確かな医師」(73.9%)「病気についてよく説明してくれるが、薬をあまりくれない医師」(71.7%)「技術的にはまあまあだが、少し難しい病気だとすぐ専門病院を紹介してくれる医師」(66.8%)となっている。これからも、対話と同様に技術の確かである医師が、一般市民にとって強く求められていることがわかる。
 ならば、質のいい医療を考える時に技術についても論じるべきだという事になろうが、技術というものは、言ってみれば、黙っていても発達していくものであると思われる。何故か。私は、技術そのものや、その発展にはそれほど倫理観を必要としないからではないかと思う。技術というものは、それ自体では物質的な響きを持ち、施す人の心をそれほど摩耗させるものでない。
 故に、質のいい医療を考える時、行われにくい部分、すなわちその技術と患者との間を取り持つ対話の部分に注目するのがよい。しかしながら現状では、対話の質を中心に論議しているだけ対話が十分な時間を得ていないと思われる。よって対話の機会の増大をいかに行うかを中心に考えていきたい。
 なぜ対話が十分に行われていないのか。物理的な障壁と心情的な障壁と両方を考えてみることにする。
 物理的な物では、時間と労働力の不足つまり、合理化、看護婦不足などである。心情的な物としては、倫理の問題、医師と患者の立場の違いそれに関与するマスコミの問題などが挙げられよう。さらに健康保険の問題も取り上げることにする。
 まず時間の不足である。「三時間待ちの三分治療」と言われている現状を生み出したのは何故か。
 戦後、健康権なるものが、人権として認められ、保険制度が確立され、医療は住民にとっても身近なものとなった。少し具合が悪くなればすぐ病院という現状を生み出すわけである。その結果、需要が供給をはるかに上回ることになり病院は、合理化を図らざるをえなくなり、技術と能率の優先が起こることになる。医療は分業化され、専門分化した。
 専門分化した先に生まれたのが専門医である。専門医は、医療に最高の技術を提供できるという点でこれからも重要な存在であると思われる。よって今は、健康権によって起こった時間不足を、専門医を生かしつつ解消することを考えなければならない。
 条件に合致するシステムとして地域治療が挙げられる。一般に大学病院などの大病院では、専門医をかかえている。そこに風邪のような軽症の患者が押しかけてしまっては渋滞を起こすことになり好ましくない。大病院は大病院なりの役割を演じるべきなのである。軽い疾患は、地域のプライマリーケアを担当するものが対処し、そこで扱うことのできない難しい病気を大病院で扱うべきである。
 そのためには、地域を担当する医師というものがより必要となり、大病院との連絡も密に取る必要がある。また、地域の医療を考えた場合、住民と医師との距離が近ければ近いほど好ましく家庭医が今後見直されていくことが望ましい。専門医制度の発達したアメリカでは、家庭医が内科医に次いで専門医として活躍している。家庭医、地域の病院、大学病院などの大病院、という一つのラインが確立されることが望まれる。
 このようにして、対話を密着した環境で行いかつ、需要の大病院への一局集中を避けていけば、状態は改善へと向かうであろう。ただ、この問題は単に医療側だけの問題であるとは言えない。患者が保険を濫用していると思われることも多い。ただ安静にしていれば、治るとわかる風邪の症状で病院にかかる必要があるだろうか。これは個々の考え方が違う以上深入りはできないが、少しは見直されるべきである。
 労働力の不足、これは看護婦の不足が槍玉に挙げられよう。労働力の不足は、聞き手の不足、時間の不足を直接に生み出すものとなる。
 看護婦の不足への対応は、看護婦の社会的地位を医師レベルまで引き上げることがよいと思われる。具体的に言えば、給料を上げるという事である。資格獲得のための教育体制の不統一という問題もあるが、私はこの給料というものが全てを解決へと導くように思う。そして看護婦の仕事はそれに値するのである。このためには、国が看護婦の仕事の再評価をし、保険点数に繰り込んでいくことが必要である。
 次に、心情的な障壁について考える。倫理感の問題がまず挙げられる。世の中ではことあるごとに医の倫理が取り上げられるが、私はこの医の倫理というものに、過大な責任を負わせることをしない。倫理が必要だというのは、簡単な仕事であるが、その心を実行するのは難しい。世の中を見て、全ての人が聖人君子に思える人はいないだろうし、およそ夫婦関係の一つを取ってみても、人間のエゴイズム抜きには語れないであろう。医師もその例外ではないのである。
 つまり、倫理感を否定するのではないが、倫理が必要だと念仏のように唱えるよりは、その倫理感を発揮しやすい舞台を作る方が生産的だというのである。よって倫理感は、対話を持つという意味で一つの障壁となり得るが、それをどうこう言ってみても仕方のない問題なのでここでは重要視しない。
 次に、患者と医師の立場の違いである。何か患者が、医師に伝えたい事、聞きたい事があっても医師に言い出せないことも多い。患者は、何か余計なことを言うと、医師がへそを曲げて最高の治療を受けられなくなるのではと考えるからである。
 そのような場合、医療がチームで行われている今、そのチームの他の構成員に対話を求めればよいことも多い。看護婦さんに悩みを訴えてもよいし、薬のことなら薬剤師に聞けばよい。また、最近注目を集めているソーシャルワーカーもこれからチーム治療の一員として対話の窓口を広げていくであろう。
 患者と医師との立場から生じる障壁をチーム治療の中で対話の窓口を増やすことによって減らしていこうというわけである。しかしながら現状では、薬剤師などは、患者と直接接する機会を十分持っておらず、十分な対話が持てるとは思えない。薬なしには、現在の医療が行われないことを考えれば、薬剤師の仕事がより広くなっていくことが望まれる。
 医療の分業化という中で、チームとしての医療は、対話の窓口を幾つも持った患者と接しやすいものとしてこれから活躍していくことが望まれるのである。
 さてこの患者と医師との障壁に関係してマスコミの問題も挙げられる。マスコミに対して、医師はかなりの悪印象を持っている。当然、自分の保身を考えるためもある。実際、自分も医学部にいるという今の状態でも、最近は、医療の悪い部分を取り上げられると医師の立場も考えてくれと心の中で思ってしまう。
 しかしながら一般の住民も医師程でないにしても、マスコミの過大報道については、偏向を感じているようだ。これは、「21世紀に向けての医学と医療」の中で、マスコミの医師観に与える影響として「国民の医師に対する不信感を強めるような影響」が医師で98.0%一般住民で51.5%という値を示していることからもうかがえる。
 マスメディアの影響は、情報化社会において無視できるものではない。そのマスメディアが好ましくない医師像を過大に取り上げれば、少なからず医師と患者の障壁が、不信感という形で最初から現れてしまう。マスコミが、医師に対しての警鐘を鳴らすのもマスコミの性質上わかるが、患者と医師とのより良い関係を築くには、親しみやすい医師像を作り上げていくことも必要なのではなかろうか。
 さて最後に保険の問題である。保険の問題は、多岐にわたるものであるが、対話の障壁として考えると対話という一つの技術が評価の対象になっていないということである。
 例えば、精神科医が長時間かけて患者に対し根気よく説得療法を行っていても保険の点数は算定されないし、当然看護婦と患者の触れ合いはお金になることはない。無形のものに、評価を与えることは難しいことであるが、もう少しこれについて検討すべきであろう。
 ここまで、対話の量をいかに増大するかについて述べてきたが、対話の質というものを考えてみる。対話の質は、前に述べた対話の必要性に合致するものが良いとされるのだが、対話の時間や舞台が与えられてもはたしてうまく対話することができるのであろうか。
 今、医学部にいて痛切に思うのは、その閉鎖性である。私の場合は総合大学であるので幾分他学部との交流もあるが、単科大学では、尚更のことであろう。人との対話を実践するうえで、あきらかにこのことは不利に働く。医学生は、社会と触れる機会をより多く持つよう努力すべきである。
 また、教育の現場において患者心理の勉強というものが、疎かにされているということも問題である。患者の心理を学ばずには対話は持ちにくいはずである。
 医療における対話の質は、医療現場に立つ前に教育という形である程度向上されるものであると思う。この点で医学教育を少し見直すべきである。
 さて、ここまで質のいい医療を技術を前提にして、患者と技術を結ぶものとしての対話の量と質であるとしてきた。但し、ここでの対話は、病院の内で起こる対話を対象としていた。これに加えて、マクロの対話というものが考えられる。
 現代の最大の問題となっているエイズがよい例となる。諸外国に較べてまだ感染者が少ない今、予防こそが最大の医療なのである。医師側が正確な情報を提供し、マスコミや一般の人々を媒介にして社会が予防という医療を行う。これがマクロにおける対話の医療である。
 ミクロとマクロの対話の量と質これが、これからの医療の質を握っているのである。

参考資料
 ●莇昭三「医療学概論」
      勁草書房 一九九二
 ●遠藤周作「遠藤周作のあたたかな医療を考える」
      読売新聞社 昭和六一年
 ●辻村明=編「医療と社会」
      -21世紀へ向けての医学と医療-
      日本評論社 一九八七
 ●中川米造「サービスとしての医療」
      社団法人農山漁村文化協会
      昭和六二年
 ●中島修平、中島美知子
      「希望の医療ホスピス」
      家の光協会 平成三年
 ●なだいなだ「お医者さん」
      中央公論社 一九七〇
 ●塙正男「医療ってなんだろう」
      青土社 一九八八
 ●吉本光一「転換期の医療」
      国際商業出版社 一九八四


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