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“「家族」はどこへ”
幸せな家族生活を求めて

大内 剛(東京大学文科一類)

 

一、はじめに
 家族-家族とは何か。改めて考えると明確に表現できませんが、その意味は、いやそれどころか家族そのものも時代と共に大きく変化したと言えましょう。私は、家族の、構成員にとっての意味がどう変わったかについて考えるために、まず家族を定義し、そして、より具体的に家族の姿をイメージするために、大学において存在する様々な形のグループと重ねてみました。そして、その結果、私たちが幸せな家族を営むためには「ゼミ型家族」が最も優れているのではないか、との結論に達したのです。その推論の過程は入る前に、家族の定義をまず記したいと思います。
 家族とは何か。それは、血縁を中心として一体的で密接な経済的つながりのある集団、とします。それでは以下、本論に入ります。

二、旧来の家族
 有史以来から戦前までの家族を一括りにしてしまうのはかなりのためらいがありますが、幾つかの大きな要因の変化を念頭に置けば、問題は少ないと思われます。
 その大きな変化のうちの一つは技術の進歩でしょう。しかし、それはそれほど大きな問題ではありません。確かに、このことは家族に余裕をもたらしました。しかし、まだ一人で生活をするのは容易ではなかったからです。実際、当時の学生は書生として富豪の家に居候していたり、あるいは下宿の小母さんに世話になっていました。
 では、問題となる重要な変化とは何か。それは家族の果たす役割の減少です。人々を治めるのに国や地方公共団体ができ、仕事は村で一致して行う。さらに学校の設立。これらによって家の果たす役割は大幅に減りました。そしてこれこそが一家族ごとの構成員の数を減らし、また家族に余裕をもたらした主要な要因でしょう。
 そしてその余裕によって、様々な願望が出てきますが、その一方で、やはり個々人での自己の願望を実現するには十分でなかったので、結局「家名を上げる」という方法しか取り得なかったのです。
 さて、ここで私の曾祖母と同年代の知人の例を挙げたいと思います。彼女はかなり裕福な商家の娘として生まれましたが、親の勧める男性と結婚し、その夫の出世と子供達のために家事と子育てに専念しました。そして、その子供のうち一人だけが帝大に行き、あとの沢山の子供は中卒で仕事に就きました。
 このタイプは「運動部型家族」と言えましょう。運動部においては、学年による強烈な縦関係があり運命共同体として苦楽を共にします。具体的には全てが部の発展を中心として動きます。すなわち、部の功績と規模拡大のために徹底した役割分担が行われます。有望な人にはどんどん練習させる一方で、そうでない人は球拾いのような、サポートばかりやらされます。丁度彼女の家族全員で帝大生を応援するのと同じです。
 そして、部のために全ての構成員の自由は圧迫されます。退部はかなりしにくく、沢山いる控えは皆レギュラーのサポートを当然のこととして要求されます。一方レギュラーはそれに応えるべくひたすら練習だけに励み、他のことをやる自由は控え以上に制限されます。丁度、帝大生がいずれ家族の重圧を背に世間で頑張るようなものです。
 さらに、OBに対しても寄付等を当然とする空気のあるところは少なくありません。ちょうど、退職の近い父親が自らのコネを駆使して息子を出世させようとするのが当然視されるようなものです。もっとも、OBにとって部が安息の場であることも確かですが。
 こんな感じですから、部員は当然沢山いることが求められます。
 このように考えると、まさに運動部は古い家族のありようとそっくりです。強い縦関係があり、全てが組織のために動き、その発展の為に全ての個人の自由が制限されるのです。

三、最近の家族
 高度経済成長期を経て著しく豊かになった日本では、その家族の形態も変わりました。核家族と呼ばれる形態、すなわち親子だけで家族が構成されることがごく自然なものとなり、逆に旧来の形は大家族と呼ばれて、もはや珍しいものと考えられるようになりました。
 私の親の世代の一例を挙げます。その男性は見合結婚をしました。その前までは彼は一人暮らしをしていました。結婚して現在に至るまで、夫婦と子供だけで暮らしています。三人目の子供も大学受験が終わり、手が掛からなくなったので、妻は昔の経験を生かしてパートを始めました。夫婦とも月に一回程度は実家も訪問しています。
 次に私の小学校の時の先生の例を挙げます。彼女は結婚して子供も生まれましたが、まだ学校の先生を続けています。現在三人で暮らしており、家事などはある程度分担して特に問題もなく生活しています。
 これらの家族は「サークル型家族」と言えるでしょう。いわゆるサークルにおいてはまず各個人の自由が尊重されます。そして、それは幸せ、楽しさを共有する単位として存在し、何をどのようにやるか、そして参加、入退部も比較的自由です。一緒にいることで、それぞれの個人が楽しむ。ちょうど、家族において夫婦のあり様、子育て、そして産むかどうかが自由であるのと共通しています。
 誰かが何かを実現するのに、もう他の人が犠牲にならなくてもいいのです。各個人が自分の目的のために生きて行けるのです。あらゆる可能性が全ての人に開かれているのです。全ては私たちが物質的に豊かになったがゆえといえましょう。しかし、しかしです。この家族のバラ色であるかに見える生活は果たしてずっと続くのでしょうか。
 現在はサークルがあまりにはやっているので、サークルにはあまり長続きしないで消滅するのが多いことは注目されていません。サークルは現在の会員が全てにおいて中心ととなって自由に活動しているので、そこを卒業した人達の居場所はすでにそこにはありません。会員の自由意志でどんどんサークルは変わっていくのです。また、新入生の勧誘についても、誰かそういったものが好きな人がいなければ、誰もそういったことを率先してやらないので、何回か勧誘好きな人が誰もいない年があれば、あまりにサークルの数が多いために、誰にも知られることなく潰れてゆきます。そして、自由であるがゆえに、組織が省みられにくく、男女問題で亀裂が走ったり、新入会員の世話の押し付け合いが起こったりします。これらはまさに「サークル型家族」にこれから起こり得る、あるいは現在起こっている問題を思い起こさせます。例えば、年老いていく親を、放っておく。彼等が健康を損ねた時、一体誰が面倒を見るのでしょうか。パートナーに先立たれた老人はその寂しさをどう紛らわせるのでしょうか。また、今の夫婦は必要以上子供を産みません。子供を産まない人も増えてきました。若いうちはそれで良いでしょうが、子供を産まず、家族がいなくなった時、老後の生活を一体どうするのでしょうか。あるいは、二人だけの問題と考えて離婚をする。子供の養育を夫婦ともする気がない時、子供は一体どこに行けば良いのでしょうか。
 でも、やはりサークルも組織です。問題が起これば楽しい活動を回復するための努力を各人がそれなりにするものです。また、その前後に各人の役割を決めて役職を作る場合もあります。ちょうど、夫婦がお互いの事や子供のことについて話し合い、結婚の前後、子供を産む前後にはお互いの役割分担について考えるように。
 このように、最近の家族では各人の個人的自由が全てに優先します。そして、それゆえに起こり得る問題も色々考えられるのですが、問題が起これば家族で話し合うことになります。まさに現在のサークルと形態が同じであると言えましょう。

四、家族の行方
 (一)これからの家族 その一
 では、このまま時代の流れに任せていくと、家族はどうなっていくのでしょうか。世の中の状況を概観してみますと、これかれも人々は物質的に豊かになっていき、わずかに残る束縛・不自由をも、自由の御旗を掲げて駆逐しようとするでしょう。女性の社会進出、住宅環境の悪化、教育費の高騰、これらが原因だとされる出生率の低下が進みます。そして、夫婦別姓の検討、単身赴任・留学等の増加などに見られる家族からの個人の半独立、など、家族はますます少人数化、自由化していくでしょう。
 ここで、恐らくこうなるであろうモデルケースを挙げます。ある女性は、男性と対等にばりばり働いています。若くして結婚して子供が一人生まれましたが、夫と意見が合わずに離婚し、子供はどちらも引き取らず、養護施設に入っています。そして、今彼女は何人かいる男友達の中で、子持ちの男性に魅かれています。しかし、相手の子供の面倒を見る気がなく結婚はしません。身の回りのことは家事代行サービスに頼んでいます。
 これは「仲良しグループ型家族」と言えるでしょう。仲良しグループはもう制度ではありません。一緒にいるのはその事自体がそれぞれの個人にとって楽しいからであり、合わないことが分かると簡単に別れます。なぜなら、何かが起こったときに話し合うと、結局自分も何らかの負担をしなければならないからです。全て自分にとってどうかが問題です。他人にどんな影響があるかなど知ったことではありません。だから、新しい友達が入ってくるのを拒みはしません。が、その人がグループに定着するには、その中に入っても彼(彼女)の自由意思が何の侵害も受けないという、非常にまれな状況を必要とします。自分の自由のためにはグループのことなど気にも掛けずに行動します。自分がグループにいれようとした新しい友達についても同じです。彼(彼女)がその後どうなろうと大して重要ではありません。結果は全て彼(彼女)自身の行動によって起こったものだと考えるのですから。
 果たして、家族全員が自分の事情を最優先したらどうなるか。それが前述の例に表れています。自分が一人で暮らしていく力があるうちは良いかも知れませんが、その後についての考えがないのです。生活する力があるので、物質・精神面でのサポートを必要とする、子供や老人(いずれ自分もなるのですが)の視点を持てないのです。でも、それとは別に、力が十分にある時でも、「仲良しグループ型家族」の中で私たちは本当に安心できるでしょうか。最近の新興宗教の流行や、ヨガなど、精神世界への興味などは、物質的に豊かになった一方で、精神的な充足を求めている現代人の姿を映し出しているように思われます。現在でさえこうであるのに、さらに安息の場所がなくなってしまったら、私たちは一体どうなるのでしょうか。

(二)これからの家族 その二
このままいくと家族の存在意義が失われます。なぜなら、家族の仕事を企業がやることで家族の中にも資本主義が浸透し、金が全てとなり、家族が気のおけない相手でなくなるからです。そして、一人一人家族、すなわち家族の崩壊です。
 こう考えるとおぞましいですが、おそらく少し後に変化するでしょう。歴史をみればわかるように一方向に極端に進むとそのあとにより戻しが起こるものです。寂しい老人を沢山目の当たりにして、沢山の人が寂しく辛い幼少期を送れば、再び家族の強い絆を求める空気が当然の結果として強くなるはずです。
 でも、ここで、絆の強い家族としてどの様な家族が思い出されるか考えてみて下さい。そう、「運動部型家族」です。あまりに過大な自由を前に、自分で選択できなくなった、すなわち自由であるがゆえにかえって不自由になっている現状に疲れきった私たちは、子供や老人の社会保障のあまりに多大な負担にも耐えかねて、いずれ法的に強い拘束力を持つ「家」制度の復活を許してしまうかも知れません。でも、そうなってはせっかく長い期間かけて勝ち取ってた個人の自由を尊重する考え方が、葬られてしまいます。あまりに当然なのでこのタイプの家族の問題点について冒頭で触れませんでしたが、その最大にして最悪の問題点は、簡単にいえばそれは誰一人として幸せになれないということです。その家族形態によって実現されるのは家名の発展です。しかし、家名そのものが人でないことはもとより、本当の意味の家名の体現者など誰もいません。意思を決定する家父長でさえ、実体のない「家名」に従属してその発展に尽くすために全員を動かしているだけ。
 このような幻想に満ちた不幸な制度を復活させてしまうことだけは何とか防ぎたいものです。

五、望ましい家族像とその実現
 (一)望まれる家族像
 このように考えてくると、「運動部型家族」の復活を防ぐには、「仲良しグループ型家族」にならないうちに、もっと優れた家族の形態を作り出すことが求められます。
 でも、そんなものが本当にあるのでしょうか。そんな時に思い浮かんだのが「ゼミ型家族」だったのです。
 まず、モデルケースを見てみましょう。ある男性は思いを寄せていた女性と結婚しました。しかし、結婚する前にお互いの価値観が重要な点で一致すること、すなわち、(1)個人は基本的に自由だが、その行動に責任を負う。(2)家族とは相互の思いやりと協力によって維持されるものである。と双方が考えていることを確認しました。結婚後も共働きでしたが、それでは子供の養育に十分でないと考え、女性は出産と共に仕事を退職しました。夫のサポートと子供の成長で時間ができたので、最近は日本語教師をボランティアでやっています。子供にも自分でできることはどんどんやらせています。
 「ゼミ型家族」。その本質はどこにあるのでしょうか。ゼミにおいては、参加者は自分達がやりたいテーマを熟考した上でどのゼミに参加するかを決定し、全体で一つの内容を取り扱います。そこでは各人がレジュメを切ったりゼミの雑務をここなすなど、個々人の能力に応じた貢献が求められ、その前提のもとで統一テーマに関して討論を中心とする研究が進みます。途中からの参加はあまり認められませんが、これはそのゼミに受け入れる余裕があるか、希望者に十分なやる気があり、追い付くことが可能であるか、などの要素によって判断されます。参加者は上級生からサブゼミなどで指導を受け、次の年に彼等が下級生に対し同様に指導する、といったシステムになっています。卒業生との交流があるところも少なくありません。就職の世話もして貰えることが多く、自分が就職したら逆にできる範囲で下級生の世話もします。
 これを家族にあてはめてみて下さい。子供であれ、行動は自由ですが、自分の決定に責任を持つことが求められます。そして、各人ができる事をやるという相互の協力、そして、受けた恩は受けた人と下の世代に返すという思いやりの姿勢が垣間見られます。そして、全体で一つのテーマ、すなわち家族の中の相互理解の維持・促進を目指します。ですから、問題点があれば徹底して話し合うことになりますし、この不断の対話を当たり前だと考えるところが、この「ゼミ型家族」の本質なのです。
 ところで、人々がこのように真剣に考えると、結果としてやはり子供は減るかもしれません。現状は次世代の環境の悪化を予想させ、また、養育費等が高騰しているのです。そして、子供を産み、育てるのは未知であるがゆえになかなか自信が持てないのだから、それは不思議な事ではありません。皆が将来も含めて熟考し、それでも出生率が減るのであれば、それはやはり現在の環境に問題があると考えるべきでしょう。家族のあり様とはまた別の問題として考える必要があります。
 とにかく、この「ゼミ型家族」、すなわち自己に責任を持つ自由な個人が相互に協力し、思いやる。こういう家族が現在考えられる限りでは理想形態であると思われます。

(二)実現のための政策
 では、それはどうすれば本来当たり前であるところの責任感と思いやりのある人格を育てられるのでしょうか。それにはそのような人格を持つ人達がその重要性を訴え、教育するしかありません。
 よく考えれば、資本主義という考え方は、経済力、すなわち金が全ての世界です。そこからは容易に拝金主義の傾向が生まれます。そういう資本主義に内在する問題点を素直に認めて、どれだけ道徳的な教育が重要であるかを認識するべきなのです。
 そして、その教育はまず教育者たる小中学校の教師を主に対象とし、研修で重点的に行うと共に、子供たちが、授業時間に生き方について話合う時間や、学校外で実際にボランティアをする時間を設けるなど、制度的保証が必要です。また、将来は母親、父親にも対象を拡大する必要があるでしょう。そこで子供をいかにそういう考え方に導くかについても考えさせるのです。
 また、制度による側面支援も重要です。家族がお互いに理解し合えるように、また、女性の働く権利を侵害されないためにも、労働時間の短縮を実現する必要があります。そして、家族の暖かい関係を守るためにも家庭の役割を全て企業が代行する状態を招かないような制度の確立が必要です。

六、結論
 私はこれまで、家族の今までのあり様、そしてこれからの可能性について考え、さらに望ましい形になるための方策についても、私なりの意見を記してきました。その過程で大学における様々なグループの形に家族をなぞらえて考えました。
 その中では個人の自由が無視される大規模な「運動部型家族」、それぞれ個人が尊重されて楽しみを共有する「サークル型家族」、各人が好き勝手に楽しむ「仲良しグループ型家族」、そして、自由と責任を認識する個人が一緒になって相互理解を目指す「ゼミ型家族」。でも、よく考えると、すでに昔から誰もが家族には思いやりと対話が必要だ、などということは当然のこととして理解されており、実際新民法はそういう家族を実現することを目指したものであったはずです。それでも結果として全く違う方向に進んだのは、これが一人一人の心がけの問題でもあるからなのでしょう。
 私たちの世代の問題は私たちの世代で片付けるのが義務でしょう。老後に年金で子孫のお世話になるのは大した事ではないのですが、子孫の世代に変な価値観や制度を残すようなことだけは避けたいものです。いや、そんな固く考えなくても、とにかく私たちも幸せな対話のある家族生活を送りたいじゃありませんか。そもそも、政策的改革は方向付けまでしかできません。最終的に「ゼミ型家族」を作り上げるには私たち一人一人が努力する以外に方法はないのです。

参考資料・文献
 ●一月十日付 産経新聞コラム
  「あい・愛・アイ」
 ●日本家族史 関口裕子他著 梓出版社


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