「インフォームド・コンセント」
増田研一(和歌山県立医科大学整形外科学教室大学院)
最近、「インフォームド・コンセント」という言葉を多くのマスコミが取り上げるようになった。その意味は、
「臨床の場において医師が患者に対して現在の病状について適切かつ十分な説明を行い、患者は完全に納得したうえで治療法についての同意、選択を行う。」との由である。なるほどもっともなことであると思うが、なぜ今時あえてこのような新しい言葉を使ってまで唱えねばならないのかという気がする。昔から医師はこういった考え方の下に医療を行うべきであった筈である。逆に言うと、現在の医療の場においてこのような当たり前のことが行われていないということであろう。また、医師と患者の人間関係の一つの理想像というだけでなくもっと現実的な面が見え隠れしているような気がする。
そこで、一人の医師として「インフォームド・コンセント」という言葉の持つ背景、問題点についての考えを述べる。大別して以下の三点である。
まず第一に今日になってこのような言葉が浮かび上がって来た背景に、いわゆる医療裁判の増加があるのではないかということである。今までは患者は医師に対して、
「命を委ねる。」という、いわば、「先生にすべてをお任せします。」という受け身の立場でしかなく、故に治療法についても殆ど医師の側のみで決定され、患者の意志は殆ど反映されなかったと思われる。つまり患者の選択の権利というものはなしに等しかったのではないか。また、日本人らしいウエットな感覚で、「同じ日本人だから分かるはずだ。」という言いたいことを口にしない曖昧な人間同士の関係が医者と患者の間でも普通であったろう。しかし近年マスコミが各種治療法についての解説を詳細に行うようになるなど、患者が以前とは比較にならないほどの情報を身につけている。またアメリカに代表されるように諸外国における医療裁判の実態も報道されるにつれ、今まで受け身一辺倒であった患者がその権利について目覚めてきたのも無理からぬところであろう。
言い換えれば、「インフォームド・コンセント」という言葉が今になって浮上して来た背景には、「こういった当たり前のことをきちんと行わないと無用なトラブルに巻き込まれますよ。」という警告が含まれているような気がするのである。考え過ぎであろうか。しかし実際の臨床の場において、権利ばかり主張して、いわば医師のあら捜しをしているのではないかと思う程の患者が多いのもまた事実である。つまり、本来ならば余分な理由づけなど不要なはずの医師と患者の関係が時代と共に変化して来たととらえるべきであろう。
第二に、私は前述の「インフォームド・コンセント」の定義のみでは実際の医療の場においては不足ではないかと考えている。前述のような背景があろうとなかろうと「インフォームド・コンセント」は実践せねばならないと思う。しかし医師の側としては、説明だけでは不十分で、それを「正確に記録しておく。」ということが重要であると考える。
その理由として一つは、患者のみならず医師の側をも守るという意味がある。医師の怠慢を改め、患者の権利を守るという本来の目的は勿論重要である。しかし医師がいかに誠意をこめて「インフォームド・コンセント」を実践したとしても、前に述べたように残念ながら患者がすべてそれに答えてくれるわけではない。そうでなくても心身が健康でない、異常な状況にある弱い人間が、果して医師の行った説明を普段のように理解して正しい判断ができるとは限らない。あとになって、「私はそのような治療方針について説明を受けていないし、同意はしていない。」と言われるかもしれない。医師の一方的な治療方針の押し付けであったと医療裁判に持ち込まれるというのは極端な話かもしれない。しかしそこまでエスカレートしなくても精神的な信頼関係が不十分だと治療効果も半減してしまうであろう。そういった無用なトラブルを防ぐという意味から、医師は自分の行った説明は勿論のこと、それに対する患者の反応、納得のようすに至るまで詳細に記録すべきである。
説明の記録が重要であるというもう一つの理由は、現在の医療が非常に多岐に細かく分化しているということである。例えば腰椎疾患の患者の排尿障害に対して整形外科医が泌尿器科医に紹介するといったことは日常ごく一般的である。いわば一人の患者を非常に数多くのスタッフがネットワークを作って治療に当たっているのである。つまり「インフォームド・コンセント」は一人一回で終わりなのではなく、一つの科で少なくとも一回は必要であろう。その際に実際の治療のみでなく、「インフォームド・コンセント」についても協力態勢で当たるという事が重要であろう。各科の担当医師が説明することに矛盾が生じればそれこそ治療の効果はあがるまい。他科の医師がどのようなことについてどのような説明を行い、それに対して患者がどのような反応を示したかを知る必要がある。そのためにも正確で十分な記録が重要であると考える。けれども実際の場においては時間的な理由などから困難な場合が多いのも事実である。
三番目に述べることは、私が「インフォームド・コンセント」がうまくいかない最大の理由と考えているものである。
それは医師がこういった方面でのトレーニングを全くと言って良いほど受けていないという事実である。つまり自分が考えていることを正確に相手の納得するように伝えるというトレーニング不足という現実である。
医学部六年間の教育というものは、いわば知識の、それも非常に細分化された高度の専門的知識の吸収であると言い切ってしまっても過言ではあるまい。特にいかにして医師国家試験合格者数を増加させようかという所では殆ど受験予備校と変わらないかもしれない。ところが国家試験に合格して医師免許を取得してからは医師と患者の一対一の人間関係が直接身にのしかかってくる。つまり、「学生の間の知識はたいして役に立たない、医者になってからが勝負。」なのである。医師の社会は古くからの封建社会を最も色濃く残す社会といわれているが、大学では教えてもらわなかった人間関係の面でのトレーニングは指導医とのマンツーマン関係の中での、それこそ見様見真似の中から始められるというのが実状であろう。学生時代にも「臨床実習」という時間が形の上では多く取られているものの、実際には講義の時間に説明のあった細かい知識の再確認が精一杯ではないか。そこで医師としてのスタートラインに立ってから初めて人間関係についてのトレーニングが始まり、徐々に失敗を重ねながら自分のスタイルを身につけていくのである。
一生勉強を続けて行かなければならない医師という職業ではあるが、なんとも能率が悪いという感は否めない。更に医療裁判の増加など医師を取り巻く回りの世界はますます厳しさを増している。そういった現実的な面から見ても、もっと早い時点からもっと時間をかけて、「インフォームド・コンセント」と構えなくても自分の考えを誠意をもって相手に納得してもらうまで伝える、という人間関係のごく基本的な事を訓練していくべきであると考える。
前述の如く、とかく日本人は、「思ったことをあえて口にしない方が美徳である。」とか、「以心伝心」などという風に考えがちである。しかし、特に現在の医療の中では、「沈黙は金ではない。」のである。
もっとも医療の世界だけではなく、このような人間関係の問題は他の社会でも問題となっているようである。四年間の大学教育を受けて来たはずの大の大人が研修と称して体育会のような合宿生活を送り、礼儀や言葉使い等を鍛え直すという。こういった現実がおかしいと感じるのは私だけではあるまい。現にアメリカなどでは自分の感じたことをいかにして相手に伝えるかというトレーニングは早い時点から開始されているそうである。その結果として、アメリカ人は人と対する場において一見うるさいほど口を出す、そうでないと、「こいつは何も自分の考えを持っていない。」とみなされかねないとはよく聞かれる話である。国民性や、他民族国家、単一民族国家の違いがあるから一概にどちらが良いという風には言えないが、少なくとも日本人に、「人にものを伝える。」という面での至らなさがあるのは皆が認めるところであろう。日本の教育システムは他の国のそれに対し、総じて優れている点が多いとは思うが、最初から最後まで知識の整理、または言葉使いが悪いかもしれないが「つめこみ」に終始している気がする。自分で判断し、最も良いと思う方向を自分で選ぶという創造的な面の教育が絶対的に不足していると感じるのは私だけであろうか。少なくとも教育が創造性の育成と知識の獲得と大別されるならば、この二面のバランスがとれていないとは言えるであろう。学校を卒業して社会に出てから初めて人間を相手にすると、物事を伝えるという単純なはずのことが本当に難しいことに気づく。しかし現在の日本ではそれに対応するトレーニングの場がほとんど用意されていないのが現実なのである。
私は日本において「インフォームド・コンセント」という概念が定着し、それがスムーズに機能していくためには医学教育の場でそれ専門の訓練の場を作っていくことが絶対必要であると考える。しかしその対策としての教育の場、それも医学部におけるそれ以前に不足の点が多く見えるような気がするのである。