「産まなくなった女性たち」
楠本敏之(東京大学法学部)
産まない女性と聞くと、昨今の出生率の低下がすぐさま連想される。マスコミもこれをとりあげて、その原因やこれに伴う将来の不安などをしきりに論じている。例えば女性の地位の向上の結果としての社会進出、住宅環境の悪化、土地の高騰による住宅費や子供一人あたりにかかる教育費の増大、時には環境の将来の悪化があらかじめ遺伝子にインプットされていて人を増やさなくしているなんてことまで言われている。これらは子供を減らす動機になることは確かであり、おおむねを説明している。しかしこれだけで産まない、つまり出産ゼロの女性は解明し得ない。これらの外的、いや表面的なこと以外の要因が個人ないしは社会に生じてきていると考えられる。いままで人にとって子供、もしくは子供を産むこととは、どういうことであったのか。これには大ざっぱにわけて二種類ある。一つは歴史における人の時間的連続性の確保としての面、もう一つは家族の変容、いいかえれば個人にとっての新たな他者の誕生としての面である。まずこれらについて考えることにしよう。
第一の点についてであるが、これは具体的に言えば、跡継ぎ、ようするに「家」もしくは血統の連続性の確保である。これについては次のようなことがよく言われる。昔の日本は集団主義者で、個人を犠牲にしてでも「家」をまもっていたが、戦後の民主化以降の個人主義の台頭によって「家」の観念は薄れてしまった、と。あたっている点はあるが、同時におかしいと感じられる。ある本によれば(書名は忘れた)日本では親族間においていつも本家-分家という支配関係が形成され、分家は本家を離れて独立しようとする傾向が生まれる、とのことだ。つまり親族はもともと離散傾向にあり、これは血統があまりはっきりさかのぼれないことでもわかる。親族関係が合理的でないのである。以上のことをまとめると、貴族もしくは会社などその形態自体が重要な場合を除いて、「家」観念のようなものは、例えば中国と比べれば格段に昔から弱く、各方面の「民主化」その他による制度的、実際的な変化(都市化、産業化などいろいろ)がおこると基盤がもともと弱いためにこのような傾向に一層拍車がかけられ、今のように変質していったのである。このことは女性が子供を産まなくなってきていることに対して一定の影響があるといえる。しかし、これが主要な原因であるといえるだろうか。このことは義務としての出産の減少を説明しても、それ以外のことを説明してはいないのだ。出産が個人的な行為により近づいたというだけのことなのだ。(いうまでもないことであるが、ここで個人的、社会的というのは別に絶対的にそう言っているのではなく、便宜的、相対的につくった区別である)。
次に第二の点であるが、まず、母親にとって子供の誕生がどういうものであるのか考えてみることにする。その一つには昔から子供は希望を託す対象としての面を持っていたということがある。人は必ずしも自分の欲望を実現できない。それでも大抵の場合やっていける。そこには締念だけでなく実現のさきのばしという作用があるからだ。こういうことは今でもあるだろうし、さきのばしというようなことは害悪になるときでさえよく行われる。だから、ある程度豊かになり、諦念への転換が不可能なタイプの絶望が減って、積極的な欲望に関するさきのばしの傾向が弱まり、産まない女性の増加を促進しているともいえるかもしれない。けれどもこのことは、さっき述べた「家」の観念の弱体化に伴う子供の「跡継ぎ」性の不明確化という理由のほうが大きいといえるだろう。もう一つは、こちらのほうがここでは重要であると思われるが、子供の誕生による女性の関係性における位置の変化である。子供は彼女にとって文字通り新しい他者であるが、普通の他者と違って彼女を女から母親に変えてしまう。これは妻になったり、祖母になったりするのとは別種のより大きな変化である。これは個人的ではあるが、普遍的なものであり、今まで述べてきた事柄では説明しえなかった微妙なところを表す手掛かりになるかもしれない。そこでしばらくこの点を詳述していくことにしよう。
さて、子供の誕生による位置の変化とは一体何であろうか。まず人は誰でも誰かの子供としてこの世における生存を始める。親子関係は一般に愛情というものを基盤とした一種の支配関係であり、(言うまでもあるまいが、支配といっても必ず苦痛や不自由があるということは絶対にいえない。)子は下位の存在として保護や支配をうけることになる。そして、その人は成長するに従い友人関係や恋人関係を始めとして、いろいろな人間関係をもつこととなる。それらの中にはもっとも対等な関係の場合でも、多少の権力関係的要素は間違いなく存在している。だが、子供を産むということは、最も積極的に求められるべき支配行為なのであり、ほかのものと比べたらより具体的で、絶対的な態様をもつものなのである。出産とは能動的な宿命や運命といったものの受け入れの断行といえるものなのである。誕生ほど宿命的・運命的に感じられるものはないであろう。(古来、誕生の日時や場所ほど占いの対象となったものはないということでもわかる。)つまり、ここで言いたいことは、人は生まれてから多くの場合他人に対して下位または対等に近い立場における関係の中で暮らしており、上位であったとしても不可避的にそうなったということが多かっただろうし、(この世のことは本当はすべてそうなのかもしれないが)それ自体親子関係に比べたら直接性は弱く、抽象的であるといえるということである。(支配)関係における上位者は下位者に比べて能動的でかつ行動的でなければならない。母親の子供に対する関わりかたを考えてみるといい。母親は、他の何者に対するよりも積極的にかつ能動的に行為しなければならないし、その行為も、教える、与える、話しかける、といった能動的性質をもっている。相手はまさに白紙状態に近く、母親の行為は一方的な愛情の発露であり、ある種の創造行為なのである。その上、出産というのは殆どの場合不可避的に追い込まれて為されるのではなく自分から望んで行うものなのである。まさしく、苦労を買ってでもするというのである。これは人が生きる上で最も溌剌とした生活力や精神的肉体的強さを要するものの一つであり、生きる力の過剰というべきものなのである。生命力の過剰、例えば旺盛な好奇心や探求心などがそうであるが、それが、いやそれのみが新しいものや他者へ向かう原動力となりうるのだ。過剰分が出産に向かうといって言い過ぎであろうか。
子供を産まなくなったということは、より正確に言えば産みたくなくなったということは、単に、人口の高齢化を促進したり、若年労働力の不足による日本経済の活力低下とかというような問題に縮小されるべきことではない。(もちろん、それらも十分に大事なことであることはいうまでもない。)女性が子供を産まないことに対して、女性が所謂産みの苦しみを回避して女性としての義務を怠っていると言う男性の意見をしばしば耳にする。出産は義務では断じてないし、権利・義務という観点からいったら、男にそんなことを言う権利はないであろう。しかし、ここで考えなければならないのは、何故、回避するようになったかということだ。出産の辛さについてはよく語られる。だが、実際におこなった人以外にとってはあくまで観念的なものに過ぎず、言わば未知の不安なのだ。つまり、出産の回避とは未知の事柄に対する回避であり、加えて未知の事柄やその奥にある未知の関係に対する興味や意欲が減退していることを示すのである。支配意欲といえば誤解を招くかもしれないが、それは要するに関係への意欲なのであり、物であれ人であれ、関係するということは一種の支配なのでありそれらを切り離すことなどできない。これらの意欲や興味を失うことは生きる意志自体が弱まっていることの何よりの証であるといえる。未知の出産を自発的に望み、子供という全くの新しい他者を得て能動的に関わっていこうとすること。今まで出産を促進してきた様々の外的条件が弱まり、個人の意欲が出産行為を支えるようになった。その意欲自体が衰えてきているのではないか。生きる意欲がすべての面で。
最近時々若い人々の間で潔癖症が増えているといわれており、これと多少関係することだが、全体的に(誰なんだと言われても答えられないが)性欲が昔に比べて減退していると聞く。(一応断っておくが性欲減退が直ちに出産減少に結び付くわけではない。影響はあろうがそのすべてを説明するものではなく、むしろ並列現象と考えた方が良い。)潔癖症というのは清潔であることや衛生的であることとは異なる。徹底的な排除行為なのであり、暴力的なのである。つまり免疫が過剰に拒否反応しているようなものであり、一種の内部への閉じこもりであるといえる。これに似たことは若者だけでなく一般に見られる。例えば新聞・雑誌や私達の会話を思い出すとよい。その観念にせよ考え方にせよ一定の枠、一定の方向付けの中に閉じ込められており、それを意識しようとせずに不自由の中に埋没したまま、怠惰によって自由と錯覚しながら満足している私達自身の姿が想起されるだろう。私達は考えることが得意ではない。常に結局のところ閉じこもっているのだ。現代は特に閉ざされる傾向の強い時代なのだ。(世界的交流の始まりは同時に世界に閉じ込められる危険の始まりでもある。)こういう傾向に若者(おそらく子供はもっと)は特に敏感に影響をうけているのである。そして閉じ込めの力はそこから外部に出ようとする意志までも閉じ込めてしまう。つまり、産まない女性も知らぬ間にこの力に閉じ込められているといえるのである。脱出しようとするために必要な活動力や愛する力が減退しているのだ。もし、仮に生を定義づけるとするならば、生きるとは不断に未知と遭遇し常に外部を求めて別の自分になろうとする終わりなき運動である、といえるだろう。閉じこもって安定するのは、衰弱以外の何ものでもないのだ。
女性を圧迫してきた(といわれている)習慣の緩やかな弱体化とともに出産が自覚的な行為に近づき(つまり出産の意味を意識的に問うこと)、同時に出産衝動の衰えが顕在化してきた。その結果として出産の意味が一層問われるようになっている。これは資本主義という主義を圧迫してきた(といわれている)社会主義の緩やかな崩壊によって資本主義とは何なのかが自覚的に問われることとなり、資本主義の一種であるといえる社会主義の崩壊の自覚とともに資本主義がどうしていけばいいのかわからなくなってきているのと似ている所がある。もしかしたら、出産を促進していた習慣自体が出産衝動の旺盛を表していたのかもしれない。いまは後世に自分の影響を残したいという気持ち自体が少なくなっているのかもしれない。だから、跡継ぎが欲しくないのではないか。(私はそんな習慣自体を称賛しているわけではない。また、この習慣とは必ずしも「家」制度そのものを指すわけではない。)産まなくなった女性とは女性問題ではないのだ。
こういうふうに何かを論じてくると、最後に解決や結論を書かねばならないような気になる。私も最後に結論めいたことを書いて終わりにしようと思う。この文章は産まなくなった女性というテーマのもとに書かれた。この与えられたテーマにはこれからどうするのか、ということが含意されているように思う。女性が産まなくなったというのは確かに問題であろう。問題であるからには解決されねばならないだろう。そして、その場合、解決とは女性が子供を産むようになることである。女性が子供を産むようにしむけるには、まず冒頭に述べた外的ということができる諸問題を改善していくことであろう。子供を、例えば、一人のところを二人にするということはできるだろう。(冒頭の諸問題の改善といっても、、保育所の充実や産休制度の拡充、住宅環境の整備、これには地価の平凡化も含まれる、などなど、やろうとすれば可能なものから困難なものまでいろいろある。これらを具体的に考えることは別の場で為されねばならないだろう。)次にこの文章の大部分を割いた内的といっている事柄であるが、これは解決という言葉があてはまる事柄であろうか。子供を産まないこと自体一つの選択であり何ら弱々しかったり悪かったりすることではない。社会人としての女性の義務では、繰り返すが、絶対にない。それは人間を生殖機械と考える発想である。私が考えなければならないのは、世代もしくは現象としての産まなくなった女性たちである。これは女性だけの問題ではなく、男である私にも関係することである。これは解決できる、いや解決するべき問題としてあるのだろうか。私は解決してはならないのではないのかと思う。解決しないというのは、ここでは諦めて現状肯定してしまうのではない。むしろ、解決して、より正確に言えば、解決したと思い込んで、思考をやめてしまうことのほうが危険なのではないか。解決して出来合いの観念に閉じこもるのは逃避である。それはまさに今まで述べた産まなくなった女性の問題点を自分で繰り返すことになるだけである。 産まなくなった女性というのは間違いなく現代のある一面を象徴している。私達がやらなければならないことは、ここでとどまり、徹底的に考えて生きていくことであろう。生そのものに関わることなのである。生は解決づけて安定させるものではないと思う。これからも分析を続けていかなければならないであろう。