検索
ホーム > エッセイコンテスト

 

日本人と国際化

久木元 真吾(東京大学教養学部)

 

 「国際化」という言葉の氾濫・流行は今さら言うまでもないほどである。ただ、特徴的な点として、これほど定義が曖昧であるまま流行した例は珍しいことは指摘しておきたい。政財界のお偉方から大学教授に至るまで、揃いに揃って「国際化の時代」とか「日本の国際化が必要」などと言っている。それではその「国際化」とはどういうことかというと、明快な答えを耳にすることは少ない。“internationalization”という英単語に今日本で言われている「国際化」の意味は特に含まれてはおらず、「国際化」ブームは日本だけの現象だという話も聞くが、そのような指摘も「国際化」の意味を何となく分かったような感じにはしても、決して明快にはしない。一体「国際化」とは何なのか。曖昧模糊とした「国際化」という言葉の意味、そして「国際化」が日本人にとってどのような意味を持つのかを、以下考慮していこうと思う。

 「国際化」という言葉の定義が曖昧なのは、それが様々なニュアンスで用いられているせいだともいえよう。私は「現状が国際化されているのかどうか」を目安にして「国際化」を二種類に分けてみた。(1)状況の「国際化」と(2)日本人の「国際化」の二つである。
 (1)は企業の海外投資・海外進出の増加や外国人労働者の増加など、私達の身のまわりの状況が国際的なものになっていくことを指して言う「国際化」である。海外でのファッションや音楽の流行がすぐに日本にも伝わることが身近な例である。つまりこの場合現状は既に「国際化」されている(されつつある)のである。そしてこの「国際化」は大体において私達一人一人の意図とは無関係に進行したものである。日本が経済大国化してふと気づいて周りを見回すと知らぬ間に「国際化」していた、といえよう。(1)の国際化はこういった意味での「国際化」である。
 一方(2)は、日本人一人一人の「国際化」をさす。以後私が問題にしていきたいのはこちらである。ここで言う日本人の「国際化」とは、別に「世界を股にかけるビジネスマン」とか「海外留学」とか「英語を話せる」といったことを意味するわけではない。なぜなら、確かにそういう人達は日本の国際化の象徴的存在かもしれないが、こういう例はあくまでも一部の日本人についていえることにすぎず、たとえ英語を話せる人や国際派ビジネスマンの数が増えてはいても、決して多数派ではないのである。ここでの「日本人の国際化」とはあくまで一般的なごく普通の日本人一人一人の「国際化」を言っているのである。具体的に言うと次のようなことである。すなわち、これまでは外国人と接することは一部の人々に限られていたのが、「状況の国際化」の進展により最近になって変化してきた。今やすぐそこの隣近所に外国人が住んでいたり、あるいは仕事仲間や学校の同級生や店の客が外国人だったりするようになっている。外国人と接することはもう決して限られた人々のすることではなく、これまで日本人とだけのつきあいしか縁のなかったごく普通の一般の人々も外国人と日常的に接するようになり始めているのである。このことは、私の属しているサークルが行ったアンケート結果で、外国人と話したことのある人の割合がこの9年で24%から86%にまで増えていることがよく表している。そして、私達日本人一人一人の心の持ち方をこの変化に柔軟に対応できるように主体的に変えていくこと・・これがここでいう「日本人の国際化」である。こちらの「国際化」は(1)とは異なり、現状はまだ「国際化」されていない(されきっていない)と思われる。(2)は心の持ち方の問題であるため状況の変化にまだ追いついていないのである。
 以上まとめると、現在私達のまわりを取り囲む様々な物事が国際化しており、その結果主婦も八百屋も駅員も学生も、ごくありふれた普通の人々が外国人と日常的に接するようになり始めている。こうした変化の進行に対しそれをスムーズに受け止めることができるように一人一人の心が「国際化」する必要が生じてきている、といえよう。(1)のような経済・制度・文化などの“物事”の国際化に応じて、(2)のような“人間”の国際化の方も一層求められてきているのである。そしてそれは外国に行くといった具体的・実際的な「国際化」だけではなく、むしろ今までと同じように日本に住んで暮らしていく人々の「国際化」という身近なものこそが中心なのである。

 日本人一人一人の「国際化」が求められており、それが「外国人に対する心の持ち方の国際化」だと言っても、まだまだ曖昧である。「現状はまだ国際化されていない(されきっていない)」と書いたが、現状のどういう点がまだ「国際化」されていないのか。
 道を歩いているとする。向こうから一目でそうとわかる外国人が歩いてくる。そして自分の前でその人は突然立ち止まり、
「すみません、道を聞きたいのですが……」と日本語で話しかけてきたとする。このような時、私達日本人は、日本人が普通に道を聞いてきた時と全く同じような気持ちでいるだろうか?私達は心のどこかで「構えて」いるのではないだろうか?別に外国語で話しかけられたわけではない。ただ道を聞いてきた人が日本人ではないというだけである。それでも私たちはこんな場合、日本人の場合とはかなり違う感じ方をしているのではないか。
 外国人に話しかけられ、昔習った英語のわずかな知識を頭の中でひっかきまわして何とか英語で答えようとしたが、よく聞いてみると相手は日本語で話していた・・という話を聞いたことがある。私が教わったある外国人の教師は、外国人であるというだけで電車の中などでじろじろ見られると言っていた。私達はかなり外国人を“意識”しているのである。そしてどこか対応もぎこちなくなる。
 外国人が外国人であることを過剰に意識している・・すべての日本人がそうだとは言わないが、多くの日本人がそうであるといえるのではないか。私が「現状はまだ国際化されていない」と書いたのは、この点を念頭に置いたからである。外国人や異文化に対してもスムーズに対応できるようなフットワーク=「国際化」を、まだ日本人の多くは自らのものにしていないのではないか。

 では、このように外国人に対しどこかぎこちない日本人の心理はなぜ生じてきたのか。なぜ「国際化」されきっていない現状があるのだろうか。
 まず言えることは、日本人はそもそも外国人に不慣れであるということである。江戸時代の鎖国が典型的であるが、自らの生活の領域はほとんど日本人で満たされており、確かに一部の人々は(例えば長崎の幕府役人のように)外国人との接触があったが、大多数の人々は日本人同士のつきあいだけであった。やがてペリー来航や明治維新および以後の近代化の時代においても、外国人の数が増えたことは容易に想像できるが、一般の日本人が彼らと日常的に接するとまではいかなかったと思われる。そしてこの状態はずっと続き、最近やっと変化(身近な状況の国際化)がうかがえるようになったということができよう。だから手短に言えば、外国人は日本人にとって今までずっと珍しい存在だったのである。ただでさえ島国で交流が容易でなかったのだから、外国人との接触に慣れないままここまで来てしまったのはある程度やむをえないことではあるが、この「不慣れであること」が少なくとも国際化の必要を生んだ遠因であるのは確かであろう。
 もう一つは言葉である。日本語を話せる外国人の数はまだ多くなく、また2ヶ国語以上話せる日本人の数もまだ少ない。やはりコミュニケーションの手段として言葉の占める位置は大きく、双方が必ず理解できる言葉がないということはどうしても交流を難しくする。さらに日本人の多くは、欧米系の外国人には英語を話せなければならないという不思議な一種の強迫観念のようなものがあり、そのせいか外国人から英語で話しかけられることをほとんど“恐れて”いる。英語で話しかけられやしないかとビクビクしているのである。それは外国人には日本語は通じないという意識をかなり強く持っているせいであり、前述した例(外国人に日本語で道を聞かれたのに、慌てて英語で答えようとした)はその現われだといえよう。
 しかし「不慣れ」にしろ「言葉の問題」にしろやはり本質的原因ではないように思える。日本人あるいは日本社会の精神構造に、「国際化」することとうまく付合しない部分があるのではないか。そうだとすると、それはどんなものなのだろうか。
 “和”を重視する日本人、とよく言われる。和という言葉は普通比較的良い意味で用いられるが、見方を変えると必ずしもそうとはいえない。ある集団に属そうとする際、その集団が和を求めてくるために自らの個性が発揮できなくなるともいえる。だから和を優先するためには個人の集団に対する妥協がかなり必要とされるのである。したがって見方を変えると集団への帰属が義務となる場合には、和のために個性は強制的に制御されてしまう。日本の教育が「無個性教育」ではなく「没個性教育」といわれることがこのことをよく反映している。個性はないのではなく、和によっておさえつけられているのである。
 和を重視する結果として、個人は個性を全面に出すことを嫌い、自らを集団に同一化させるようになる。言い換えれば、自分をあまり目立たせないようにする。まわりの人々と同じような存在になろうとするのである。そしてこのように自己表現に積極的でないことが、「謙譲の精神」などと言われ美徳とされる。和の重視も謙譲の美徳も結局表裏一体なのである。
 和や謙譲が美徳とされる社会においては、その反対であるような存在・・すなわち個性的で周囲の人間とは異なる存在・・になろうとする人が少なくなる。他と異なる存在になることを恐れるのである。なぜなら、集団は和を尊重するゆえに和からはみ出す者をその集団から排除し疎外しようとするからである。和という“同質性”を尊重する社会集団は、異質なものが混じるとそれを除いて同質性を保とうとするのである。だから他と異なるゆえの排除・疎外を受けないようにするため、個人は集団と自分との間の差異をやっきになって消し去ろうとする。簡単に言えば、まわりの人に嫌われないようにするためまわりの人と同じことをするようになる、ということである。そして一度集団に入って“同質化”すれば、その中は自分と同じ存在ばかりでやりやすく、また排除・疎外の心配もないため居心地もよい。同じことをしていれば無難なのである。
 以上が和を重視する社会、特に日本で顕著である特徴である。まとめると、和を重視する社会では同質性が尊重されるあまり、和からはみ出す「周囲とは異なる存在」は“異端”視されて社会から排除されてしまう。そのため人々は自ら進んで同質化につとめ、異質な存在の排除に力を貸すということになる・・このような構造が(良し悪しは別として)今なお日本社会には存在するのではないだろうか。そして私達が持っている、外国人に対するぎこちない態度や過剰な意識といったものは、この構造によって生じているのではないか。なぜなら外国人とは典型的な「異質な存在」であり、その排除に私達が慣れきってしまっているからである。外国人と接する機会が全くなかった頃は、確かにこれでも特に不都合はなかった。しかし「状況の国際化」が進んで外国人が私達の日常にかかわりあうようになってきた現在、このことは大きな足かせとなるのではないか、外国人を排除するのではなく受け入れること、彼らとともに生きていくことが必要になってきているのである。これまで続いてきた<差異の否定・排除>という日本社会の意識構造を、<差異の容認・受容>へと転換させる時を迎えているのである。
 「外国人や異文化に対してもスムーズに対応できるようなフットワーク」を身につけることが「日本人の国際化」だと前に書いた。<差異の否定・排除>から<差異の容認・受容>への転換が問われていることを考えると、今まで否定していたものを積極的に認める方向に大きく転換することとなるので、言ってみれば「国際化」とは日本人・日本社会のパラダイム・シフトなのである、と言えるのではないだろうか。「国際化」とは、言葉は気楽に使われてはいても、実は日本人にとっての大冒険なのである。

 では<差異の容認・受容>たる「国際化」とは一体何なのか。外国人を受け入れていくとはどういうことなのだろうか。
 私が考えているのは「外国人労働者を受け入れるべきか否か」といった社会のレベルの問題ではない。無論そういった問題は重要であるし全く別問題というわけでもないが、私の考えではもっと「下」のレベル、すなわち日本人一人一人という個人のレベルの「国際化」がまず問われているのではないかと思う。私達一人一人の意識の「国際化」である。というのも社会全体が「国際化」をめざす場合や社会全体が「国際的」な問題を論議する場合にしても、その基礎は間違いなく個人の意識の「国際化」にあると思えるからである。したがって一人一人の“心”が外国人を受け入れていけるかどうかが重要になってくる。
 私が問題にしたのは、和を尊重したことによってもたらされた心理、日本人一人一人の心の中に潜むある傾向が、「国際化」していくためには逆にマイナスになる危険性をはらんでいるということである。「日本社会の国際化」が問われていくとしても、やはり出発点は「日本人一人一人の国際化」なのである。
 では一体、私達がどうなることが「国際化」なのであろうか。
 結局、外国人を見ても何とも思わないようになること。「外国人だから……」とあれこれ考えて「構える」のではなく、抵抗なくつきあえるようになること。こうまとめることができるのではないか。世間でよく言われる「国際化」の意味に比べ随分小さなこと、些細なことに聞こえるかもしれないが、これはやはり決定的に重要なことである。そして一見簡単なことのように見えるが、前述した日本社会の心理に強くとりつかれていれば、まさにパラダイム・シフトであり大冒険であると感じられるのではないか。
 要するに、「国際化」とは何のことはなく、ただ“open-minded”になること、つまり偏見を持たない、「開かれた」心の持ち主になることなのである。現在日本社会に氾濫し流行している「国際化」という言葉は、究極的には以上のように定義できるのではないか。だから英語がペラペラで国際的に活躍しているがどこか偏見のようなものがある人よりも、英語も話せず海外に行ったこともないが誰にでも親切で気さくな下町のおばさんの方が「国際化」されている、ということもできるのである。「国際化」とは、いわゆる「国際性」とは直接無関係な「人と人とのつきあい方」ということが最も根本的な部分になっているとまで言うことができるのではないか。
 そしてこのことに蛇足かもしれないがつけ加えるなら自分達日本人を普通の存在と思うことである。どうも日本人は自分達のことを特別視する傾向があるように私には感じられる。戦前のナショナリズムは日本人を特別視した理不尽な優越感に基づいていたし、またそれとは別に日本人は自分達のことは外国人には理解しにくいものだと思いこんでいる部分があるようにも思える。例えば私の属しているサークルが行なった留学生へのアンケートの中に、次のような質問がある。
「日本語についてどう思いますか?」
「日本の習慣について理解できないこと、疑問に思うことはありますか?」
このような質問をすること自体が、日本人が自分達のことを外国とは違って特殊な存在で理解されにくいと考えていることの現われではないか。だから留学生の中には次のように答える人もある。(最初のものは前者の質問の答え、、後の二つは後者に対する答え)
「日本人以外にとってはただの外国語。日本語が特別だと考えること自体おかしいのでは」
「何故日本人がこの種の質問をやたらにしたがるのかが理解できない」
「いかなる民族にも自己の習慣があるので理解できないことはありません。もちろん慣れないこともあるが、徐々に理解できるはず」
 日本人は特別でも特殊でもないのである。当然のことではあるが、意外に私達はこのことに気づいていないのではないか。だから外国人に対して変な優越感や劣等感を感じて態度がぎこちなくなり、自然な態度で彼らとつき合いにくいのだ、といえるのかもしれない。前出のアンケートでもある留学生はこう書いている。
「国際化に進むなら、まず先入観や偏見といったものを捨てねばならない。自分が惨めになったり偉そうになったりせずに、平等な気持ちで外国人や外国と接しなくてはいけない」このことからも、やはり国際化とは“open-minded”になって外国人と接することができるようになることだといえそうである。

 「国際化」という言葉の氾濫は今のところおさまる気配はない。しかしこれはただの流行、「国際化ブーム」であって、実際の国際化の進行とは必ずしも一致してはいない。そしてまた、ブームに乗って流行する言葉は、やがて必ずすたれていくのである。「国際化」という言葉が人々から忘れ去られる時、果たして一つの流行語が消えていっただけで何の変化もないままであるのか、それとも実際に「国際化」がなしとげられて言葉はその役目を終えて消えていくのか、一体どちらであろうか。世界が未来に向けて大きく移り変わりつつある現在、日本人一人一人も「国際化」という大きな変化を始める時を迎えているのである。

(以上)

《参考文献・資料》

●猪口邦子『ポスト覇権システムと日本の選択』筑摩書房、1987年
●東京大学国際交流会1989年駒場祭シンポジウム・パンフレット
 (日本人・外国人に対するアンケート結果)


一覧にもどる
Privacy Policy Terms of Use © 1997-2006 General Electric Company
本サイトへのリンク及び本サイト内材料のダウンロードに関しましては、プライバシーポリシーをよくお読みの上、同意された方のみご使用出来ます。