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臓器移植

平田道彦(佐賀医科大学大学院)

 

 本論文の目的は、臓器移植という医療技術をめぐる様々な諸問題の日本における特殊性に注目して、この技術が日本で実用化する際に解決されるべき諸要点を明らかにし、その解決の方向を見定めることで、臓器移植を中心に置いた医療社会の未来的ヴィジョンを描くことにある。
臓器移植の抱える課題の解決には医療社会学的な考察が必要であるが、筆者は、移植がなされなければならないから社会を変革するという立場はとらず、あくまで医療という社会的行為が奉仕すべき人類の健康のあるべき姿を希求しつつ、その社会的行為のひとつとしての臓器移植の像を捉えたいと思う。技術は応用対象に奉仕すべきであって、その逆であってはならないと考えるからである。

<現状の認識と分析>
 I 日本の立ち遅れとその原因
 日本は医療先進国でありながら臓器移植の分野で欧米に大幅に遅れをとった。
 心臓移植を例にとると、日本では1968年の第1例以来皆無であるのに対し、アメリカでの施行数は1986年の1年だけで1368例に及ぶ。これは毎日平均約4例の施行数である。ドナーが脳死でなくてもよい腎臓移植についてもその数は比較すべくもない。
 技術的にも、医療システムの整備の面でも、欧米の臓器移植の進歩には目をみはるものがある。この進歩の背景には次のような要因があると思われる。
 1.脳死が固体死の概念として社会的に受容されている。
 その受容を助けた事情として次の3つが大きいだろう。
 a)キリスト教的死生観: あるアメリカの移植センターの掲書に、"Dont take your organs into heaven!"とある事からも伺えるように、人間のアイデンティティは脳の全機能の不可逆的停止により喪失するので、脳死の時点で身体は患者にとって意味のない物体にすぎなくなるといった考え方が受け入れられやすい精神風土がある。
 b)高額な医療費:脳死の後、見込みのない治療を続けるには多大な費用がかかる。金の切れ目が命の切れ目であった時代が長かったアメリカの医療経済がアメリカ国民に培ったのは、自分の命は自分で守るが自分の死もまた自分で決めるという自立した死生観であった。
 c)自動車事故やガンショットによる絶望的な頭部外傷が多い。
 2.論理的問題を解決する制度的発明があった。
 完全な解決ではないにせよ、ガイドラインとしてひとつの規範をつくるにあたって、専門の機関が社会と対話を繰り返しながら、了解点を模索する具体的な制度が確立した。(メディカルプロフェッション)
 以上の諸点において、それぞれ少しずつ異なる事情が日本の臓器移植推進を阻害する要因になっていると思われる。次にその日本の事情を考察したい。
 まず、脳死という臨床概念は日本人には非常に受容しずらい概念であるということである。
 最近の意識調査では脳死を固体の死とする了解がしだいに得られつつあることが示されるが、それでも遺体に対する強い執着などに見られるアニマテックな生命理解は依然根強いと言えよう。
 脳死が受容されにくいことには、日本人の死生観といった精神世界に因することの他に、医療社会として見たときの日本人社会の健康観の脆弱さが大きく関わると思われる。すなわち、日本においては、健康は誰かが守ってくれるもので、健康や疾病に関する知識や技術は偉いお医者様達の専有するものであって、被診療側は従順に聞き従えばよいという依存的な健康観が一般的である。このことは、病院や医療行政に対して盲目的に、自分達を守ってくれるものと信ずる信仰を生んだ。ところが脳死はある意味は治療終止の宣言であり、最後まで(心臓が止まるまで)患者や家族の生の側の味方であったはずの医者達が「この人は脳死だから治療は無駄です。臓器を提供して社会に役立てて下さい。」と言い出すのである。この変り身に患者側はついていけないという事情があるように思う。自分の健康を考える主体が自分でないために、「脳死なんだからあきらめなさい。」といわれても右往左往するばかりなのである。
 自分自身の生と死を考える主体が自分ではなく、一部のプロフェッション達であって、それで安心であったのは、あくまで彼等が刃折れ矢尽きるまで自分達を生かす側に立っているという前提があったからである。臓器移植の世界ではまさにこの前提が崩れるのである。患者にとってドナー視されることは、この前提が消えてしまうことで、非常な不安を生むのではないか。この不安が日本の臓器移植立ち遅れの一因であると考える。
 次に、医療社側の頑ななプロフェッション的意識に注目したい。医療上のことは医者のみが考えることで患者を含めた一般の人々のあずかり知るところではないとういう発想は根強い。
 このことは被診療側のおまかせ主義的な健康観に対する呼応と考えられる点もなくはないが、「黙って従え」式の診療態度は医学知識が庶民のものとなりつつある今日、医療不信を助長こそすれ権威の回復にはつながるまい。
 そもそも日本の医療者には医療を社会的行為として考える視点が非常に乏しく、脳死のような新しい臨床概念を社会的に正しく流布して浸透させることが極めて下手である。専門的であればある程、専門的集団は自分達の知識と技術を正確に平易に説明して認識してもらう義務があるのにもかかわらず、医師会は専門である医療という社会活動を宣伝し、「社会に貢献する団体」であることを広く知ってもらう努力をほとんどしない。医療は基本的に専門的なサービスであることを認めたがらない医療者の精神構造もまた、被診療側の不信を経由して、臓器移植推進のブレーキとなっていると思われる。 臓器不全を患い、移植を待望する人々は増加しつづけている。移植がなかなか再開しない日本に見切りをつけて海外で移植をうける人々は今後も増加するであろう。この移植ツアーの孕む問題は、単に臓器摩擦という国際間の争動にとどまらず、新しい形の搾取を生み出すとともに社会として克服すべき諸問題をなおざりにして、結実したものだけを受けとることになり、日本の医療社会としての成熟を阻害する事にもつながる。
 しかし、そうはいっても、ニーズは増え、しかもそのひとつひとつが切実極まりないものであり、社会的な見地から個人の生きる権利を否定することはできない。
 そこで、多くの新しい技術の導入がそうであったように、問題は問題として置いておいて、見切り発車の形で技術が実用され、それに伴う実際的な問題はその都度対策を講じるというパターンが、この臓器移植の分野でも早晩展開されるだろう。

<予想される問題点>
 I ドナーの人権をどう守るか。
 提供者側の生存権を臓器移植という社会的行為が浸害する可能性がある。脳死判定は如何に正当性があろうとも、専門的で密室性があり、客観的事実として了解し難い臨床的判断である。ドナーカードがあれば、患者の意志が尊重されるという論はこの場合無意味である。なぜなら、ドナーカードは脳死になった時点での意志表示であって(私は脳死になってもよい)という意志表示ではないからである。患者の意志がどうであれ、脳死判定とドナー化する過程に対しては、医療側自身による厳重な自己査定が必要である。特に救急医療現場での治療内容についての審査システムは重要なものとなるであろう。

II 新しいカニバリズムを誘発しないか。
 誰かが脳死となることから出発する臓器移植の世界には、常にこの危険が潜むことを明記すべきである。絶対的な臓器不足を解決するには、脳死者を数多くつくることが早道である。
 移植される臓器の出所を監査する法的規制が必要となろう。

III 資本の介入
 富める者が臓器を入手できるという状態、すなわち、臓器が市場に乗るというような状態は、I、IIの事柄とも関連して、あらゆる局面で回避すべく努力しなければならない。しかし、臓器移植という広く大きな規模の医療活動において、金を目当てに動くブローカー達の存在を想像することはあまりにも簡単である。具体的な対策はそれこそその都度考えるしかないかもしれない。

IV 国民の健康観への影響
 臓器移植が一般化して、支え合う健康観が育てば良いが、奪い合う健康観も発芽しうる。臓器移植術は、他人の死によってスタートするという点で、これまでの医療技術とは全く異なる性質のものである。その技術を導入、適用して、自分の健康の増進を画るという時、その追求される健康もまた、まったく新しい仕方で捉えられなければなるまい。
 他人の臓器を移植してまで追求して是とされる健康と、素の健康感を一体誰がどのようにして国民に育めば良いのか。
 筆者は近年盛んな学際的な集会において、宗教者や科学者や法学者などが対話して論理的解決などに道を見い出そうとしている動きに期待している。学校教育にたずさわる人々にこの種の集会に参加してもらい、実際に健康とは何かを教えるカリキュラムを考えてみる必要があるのではないか。

<おわりに>
 以上、考察した事をまとめて、臓器移植が文字通り日本の社会に生着するための要件を列挙して稿を終えたい。
 1.臓器移植は基本的に無償の医療行為でなければならない。
 2.臓器移植にまつわるあらゆる悪意を排除し、善意のみに発する医療行為でなければならない。そのことを保証する社会的なシステムを組織しなければならない。
 3.医療者側の意識の変革が必要である。プロフェッションとしての意識を越えて、専門的サービス集団として自覚を強くし、被診療者を全く対等な位置に置いた医療風土を育成すべきである。
 4.生と死に直接に関る技術であるだけにその実用に耐えうる強い自立した健康観を国民に涵養すべきである。
 5.施行にあたっては、生じてくる様々な問題を取り扱い、社会的合意を得ながらその解決策を立てていく専門集団の組織が必要である。

【参考文献】
 1.朝日ブックレット94『臓器置換と意識改革』 朝日新聞者1988年
 2.波平恵美子『脳死・臓器移植・がん告知』 福武書店1988年
 3.木村利人『いのちを考える』 日本評論社1987年
 4.厚生省健康政策局医事課
   『生命と論理について考える、生命と論理に関する懇談報告』
   医学書院1985年
 5.中川米造『サービスとしての医療―医療のパラダイム転換』
   人間選書1987年
 6.「死と脳死を考えるシンポジウム」実行委員会『死と脳死を考える』
   メディカ出版1987年
 7.東大PRC企画委員会『脳死』技術と人間 1986年
 8.椿忠雄『脳死』日本基督教団出版局1988年
 


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