臓器不全を患い、移植を待望する人々は増加しつづけている。移植がなかなか再開しない日本に見切りをつけて海外で移植をうける人々は今後も増加するであろう。この移植ツアーの孕む問題は、単に臓器摩擦という国際間の争動にとどまらず、新しい形の搾取を生み出すとともに社会として克服すべき諸問題をなおざりにして、結実したものだけを受けとることになり、日本の医療社会としての成熟を阻害する事にもつながる。
しかし、そうはいっても、ニーズは増え、しかもそのひとつひとつが切実極まりないものであり、社会的な見地から個人の生きる権利を否定することはできない。
そこで、多くの新しい技術の導入がそうであったように、問題は問題として置いておいて、見切り発車の形で技術が実用され、それに伴う実際的な問題はその都度対策を講じるというパターンが、この臓器移植の分野でも早晩展開されるだろう。<予想される問題点>
I ドナーの人権をどう守るか。
提供者側の生存権を臓器移植という社会的行為が浸害する可能性がある。脳死判定は如何に正当性があろうとも、専門的で密室性があり、客観的事実として了解し難い臨床的判断である。ドナーカードがあれば、患者の意志が尊重されるという論はこの場合無意味である。なぜなら、ドナーカードは脳死になった時点での意志表示であって(私は脳死になってもよい)という意志表示ではないからである。患者の意志がどうであれ、脳死判定とドナー化する過程に対しては、医療側自身による厳重な自己査定が必要である。特に救急医療現場での治療内容についての審査システムは重要なものとなるであろう。
II 新しいカニバリズムを誘発しないか。
誰かが脳死となることから出発する臓器移植の世界には、常にこの危険が潜むことを明記すべきである。絶対的な臓器不足を解決するには、脳死者を数多くつくることが早道である。
移植される臓器の出所を監査する法的規制が必要となろう。
III 資本の介入
富める者が臓器を入手できるという状態、すなわち、臓器が市場に乗るというような状態は、I、IIの事柄とも関連して、あらゆる局面で回避すべく努力しなければならない。しかし、臓器移植という広く大きな規模の医療活動において、金を目当てに動くブローカー達の存在を想像することはあまりにも簡単である。具体的な対策はそれこそその都度考えるしかないかもしれない。
IV 国民の健康観への影響
臓器移植が一般化して、支え合う健康観が育てば良いが、奪い合う健康観も発芽しうる。臓器移植術は、他人の死によってスタートするという点で、これまでの医療技術とは全く異なる性質のものである。その技術を導入、適用して、自分の健康の増進を画るという時、その追求される健康もまた、まったく新しい仕方で捉えられなければなるまい。
他人の臓器を移植してまで追求して是とされる健康と、素の健康感を一体誰がどのようにして国民に育めば良いのか。
筆者は近年盛んな学際的な集会において、宗教者や科学者や法学者などが対話して論理的解決などに道を見い出そうとしている動きに期待している。学校教育にたずさわる人々にこの種の集会に参加してもらい、実際に健康とは何かを教えるカリキュラムを考えてみる必要があるのではないか。
<おわりに>
以上、考察した事をまとめて、臓器移植が文字通り日本の社会に生着するための要件を列挙して稿を終えたい。
1.臓器移植は基本的に無償の医療行為でなければならない。
2.臓器移植にまつわるあらゆる悪意を排除し、善意のみに発する医療行為でなければならない。そのことを保証する社会的なシステムを組織しなければならない。
3.医療者側の意識の変革が必要である。プロフェッションとしての意識を越えて、専門的サービス集団として自覚を強くし、被診療者を全く対等な位置に置いた医療風土を育成すべきである。
4.生と死に直接に関る技術であるだけにその実用に耐えうる強い自立した健康観を国民に涵養すべきである。
5.施行にあたっては、生じてくる様々な問題を取り扱い、社会的合意を得ながらその解決策を立てていく専門集団の組織が必要である。
【参考文献】
1.朝日ブックレット94『臓器置換と意識改革』 朝日新聞者1988年
2.波平恵美子『脳死・臓器移植・がん告知』 福武書店1988年
3.木村利人『いのちを考える』 日本評論社1987年
4.厚生省健康政策局医事課
『生命と論理について考える、生命と論理に関する懇談報告』
医学書院1985年
5.中川米造『サービスとしての医療―医療のパラダイム転換』
人間選書1987年
6.「死と脳死を考えるシンポジウム」実行委員会『死と脳死を考える』
メディカ出版1987年
7.東大PRC企画委員会『脳死』技術と人間 1986年
8.椿忠雄『脳死』日本基督教団出版局1988年