透析に生かされて移植を思う
臓器移植~あなたは患者の立場になって考えられますか?~
阿部 緑
私は今透析を受けている。
今年八年目にはいった。今日迄に、たくさんの友を亡くした。四十代で逝った友もいる。その度に、次は自分の番かなと思う。今日は元気でも明日の事はわからない。そういう気持が、日々強くなっている。
八年前、医師から透析と言われた時、自分の人生もこれまで、と思った。透析がどういうものか、詳しくは知らなかったが、透析室を見たり、透析を受けている人達を見た時、決して明るい印象を受けなかった。私もあの人達の仲間入りかと思うと、泣けて泣けて仕方なかった。医師はそんな私にやさしく言った。「決してガンだと言ってるわけじゃないんですよ。透析すれば十五年は生きられるって保証してるんですから、泣かれては僕の方が困るなあ」それでも私は泣かずにはいられなかった。自分が可愛想で、哀れで……。
その時から八年、今も私は元気に生きている。むしろ、透析前よりも明るく楽しく……。私の様に四十代で透析になった人間には、ある程度あきらめもつきやすかったと思う。それなりの人生を半ば生きてきたのだから。
でも若い人はどうだろう。まだまだやりたい事のいっぱいある時に、透析と言われたらショックは計りしれないだろう。そういう人のためにはやっぱり、臓器移植、腎移植は必要だと思う。透析の様に、週のうち三日も拘束されては、仕事も学校も思う様にはいかないだろう。そしてそれらがうまくいかないという事は、将来の展望も開けないという事になる。
年に一度位、腎友会の方から、あなたは移植を望みますかというアンケート用紙がまわってくる。私はいつも、いいえという方に○を入れる事にしている。そろそろ五十代にはいろうとしている私にとっては、これ以上体を傷つけたくないし、身内といっても年老いた父と、子だくさんの妹と、父を見てくれている弟しかいない。移植を受けるにしても、まず身内からという事になるだろう。私のために家族の誰かに、痛い思いをさせる位なら、私は今のままでいい。そう思っている。これから先、何年生きるかわからないけれど、透析生活を自分流に楽しみながら生きた方がいい。移植の後の気まずさや、片方の腎臓になった人が透析になった例もある。そういう事を思うと、私は移植を受けようとは思わない。人生やり残した事はあるけれど、それなりに充実した四十年だったと思うから、今のままでいいと思う。しかし、これから先の長い若い人は、そうはいかないと思う。やがては、好きな人に巡りあうだろう。そうした時、きっと透析はハンデになるだろう。私の友達にもそういう人がいる。
彼は、東京で洋食屋さんのコックとして腕をふるっていた。いずれは自分で店を持ちたいと思っていたという。おだやかな人柄は誰にも好かれただろうと思う。そして、素敵な女性と知りあった。いずれは結婚して、二人でお店をと、夢を語る日々が続いた。そんなある日、風邪をひいたかなと思っていたが余り具合が悪いので、病院を訪れた。診察を受けると、突然に透析という言葉を聞いた。その時のショックを、彼は時々私達に話した。
顔は笑っていたが、私達も同じショックを受けていたので、お互いに傷みはわかりあえた。彼がまず考えたのは、彼女の事だったという。次にこれから先、自分はどうなるのだろうかと思ったそうだ。やがて入院が長びけば、仕事はやめざるを得ない。自分が彼女の重荷になるくらいなら死んだほうがいい……。彼はそう思ったそうだ。そして、彼女に別れようと言った。彼女は自分が彼を支えたい、病気になったから別れましょうと言う事は出来ないと泣いたと言う。しかし、彼は黙って、彼女の前から姿を消した。田舎に帰って静かに暮そう。そう思ったと言う。何年かたてば、彼女も自分の事は忘れて、いい人と幸福になってくれるだろうと思った。自分さえ近くにいなければ、彼女もあきらめるだろうと……。それから三年目の春、彼女はいい人と巡りあって結婚したと、人の噂に聞いた時、ほっとした様な、淋しい様な、複雑な気持だったと彼は笑って言った。田舎に帰ってからの彼はそれまでの仕事のおかげで、働く両親のために、食事の用意をしたり、掃除をしたりして透析生活を送っていた。明るくて面倒見のいい彼は、誰にも好かれた。腎友会の役員として、いろいろ働らいてくれた。私達は、彼のおかげで、明るく楽しい透析生活を送っていた。そんなある日、十二月の寒い日、おなかが痛いという彼を、心配しながら病院通いをしていた。一月になっても、二月になっても痛みはいっこうにとれないと言いながら、あい変らず冗談を言う彼に、私達はどことなく安心していた。検査、検査の結果、とうとう三月に入院になった。入院と同時に二十四時間点滴になり、食事も飲み物もとれなくなった。それまでも、痛みのために食事もろくにしていなかった彼は、たちまち病人になった。結局、手術が必要という事になった。私達の病院では、出来ない手術という事で、大学病院に移される事になった。六月に入っていた。救急車で送られていく彼を見送った時それが永遠の別れになるとは、誰も思っていなかった。手術が終れば、元気になって帰ってくるものと信じていたのに……。八月の暑い日、彼は黙って逝ってしまった。せみしぐれの中、彼の葬儀に行った私達は皆泣いた。自分の身内が逝ってしまったような悲しい別れだった。いつも楽しい事ばかり話した彼の四十年は終ってしまった。今でも夏が来るたび私達は彼の事を語りあう。
もし、彼が腎移植を受けて元気だったら、彼の人生は変っていたと思う。今頃は、好きな彼女と一緒になって、小さな洋食屋さんのマスターとして腕をふるっていただろう。透析は、そんな彼の夢をうばったばかりか、命までもうばってしまった。三十代で透析になったとき、彼は移植を考えなかったのだろうか。もっとも、十年も前の事だから、誰もが腎移植なんて言葉も知らなかったかもしれない。
私の今通っている病院にも、二十代の若者がいる。彼を見ていると可愛想になってくる。遊ぶことも出来ず、結婚も出来ず、家と病院との生活しかない。四十歳で逝ってしまった彼の様にはなってほしくないと思う。せっかくこの世に生れてきて、何もしないで人生を終ってしまうのでは、あまりにも不公平だ。世の中には、恵まれすぎた若者も大勢いるというのに……。
若い人には、優先的に移植を受ける権利があると思う。これからの日本を支えていくのは、十代二十代の若い人達なのだから……。
移植を受けても、それで万全というわけでもない。移植後の生活にも、いろいろ不安はつきまとうと思う。それでも、若さがあれば、そういう事を乗りこえていけるのではないだろうか。私の様に五十代に近くなれば、気力も弱るし体力もない。だから、ちょっとした事が気になったり、くよくよ悩んだりする。でも、若い人には力がある。どんな事にもうち勝っていけるだろう。透析のために手放さなければならない自由と未来を思えば、移植の不安も乗りこえられると思う。頑張ってほしい。私たちの変りに。
透析になったために違った人生を歩いている人は、他にも大勢いると思う。私のもう一人の友達は、二十代の始めに結婚して妊娠した。本来なら、幸福の絶頂だったはずである。ところが、妊娠中毒症から腎機能が悪化、子供はそのまま流産になってしまい、彼女は透析になった。すると、入院中の彼女に、夫の親や親類達から、離婚届をつきつけられたそうだ。透析になって、落ちこんでいる病人に他人は冷たいものである。夫はそれでも、彼女をかばおうとしてくれたそうだが、最後には、親達に説得されてしまった。彼女は、印を押すしかなかったと言う。それから二十年彼女は今も一人でいる。心の傷は、決していえてはいないだろう。でも、明るく笑って生きている。彼女を私は素晴しい女性だと思う。透析にさえならなかったら、幾人かの子供を産み、夫と共に幸福な家庭を築いただろう。女らしくやさしい彼女を見ていると、いっといい妻、いい母になったろうと思う。そういう人から、透析は未来をうばいとってしまうのだ。今日も又どこかで、未来ある若者が、透析を宣告されて泣いているかもしれない。そう思うと、本当に腎移植が簡単に出来る日が、くればいいと思う。
移植がうまくいって、二人も子供を産んだ女性も、私の近くにはいる。彼女は、実の母親の腎臓を片方もらった。幸い、両方ともうまくいって、幸福なお母さんになっている。ある程度、薬を飲み続けなければならない不安はあるが、それでも、一日おきに病院に通う不自由さからは解放された。なにより、あきらめていた子供を二人もさずかっただけでも、移植を受けてよかったと彼女は言う。子育てに追われて大変だけど、毎日成長していく子供を見ていると、元気でよかったと思うと笑う彼女の横顔を見ていると、移植前の彼女とは、別人の様な気がする。
男の幸福、女の幸福、それぞれ形は違うかもしれないが、透析よりも移植の方が、幸福を得る確立は高いと思う。それならば、これからの人には、移植をすすめるべきではないだろうか。今の体制では、腎不全になった時の選択肢は二つしかない。病院では、ほとんど透析の説明しか受けない。透析をする、しないの問題しか提示されない。その後、腎友会に加入して、腹膜透析があるという事を知らされる。移植が可能になれば、腎不全になった時点で、移植を選ぶことが出来る。そういう時代が来てくれれば、若い人達の人生も、もっと明るいものになると思う。そうなればこれ迄に夢破れて透析になり逝ってしまった人達の死もむだにならずにすむと思う。そして、私達よりも、ずっと以前に透析になり、世間の冷たい目に耐えながら、腎友会をつくり、後の我々のために、いろんな特例を作って下さった人達の苦労にも、報いることになると思う。今、私達が安心して透析を受けられるのも、そういう人達の苦しい戦いのおかげだという事を、認識して、私達はこれからの人達のために、腎移植を声を大にして言わなければならない。自分達がよければという考えでは、何一つよくならない。
まず現実に透析を受けている私達が、移植について発言する事が一番いい事ではないだろうか。
年に一、二度、腎友会で、腎移植のキャンペーンを行っているが、興味をもってちゃんとパンフレットを見てくれる人は、ほとんどいない。私達も、配ればいい位にしか思っていない。これでは、まわりの人達をその気にさせることはむずかしい。どうすればよいのか、今のところ思いつかないが、もっと何か方法があるはずだと思う。
移植によって、普通の生活が出来るようになった人達も、もっと社会に出て、移植後の人生を語ってほしい。そうすれば、今仕方なく透析を受けている若い人も、移植について興味を持つのではないだろうか。
透析人口は、年々増えつつある。一度透析になれば、生きている限り続くのだから、当前といえば当前といえる。どこの施設も患者であふれている。このままでは、本当に保険がパンクしてしまうのではないかと不安になる。昔の様に、透析が有料になったら、私達はもうその日から生きられない。自分の身を守るためにも、予防と腎移植は、さけて通れない問題だと思う。私達透析患者こそ、腎移植を推進する原動力にならなければと思う。一日おきに五時間という不自由な思いをしている私達の声こそ、世間を動かす力になるのではないか……。若い人達は、透析から解放された人生を、夢見ている人もいると思う。その人達のために、残り少ない時間を、有効に使って、何とかしたいと思う。
●受賞にあたっての感想
予選通過の手紙をいただいてからの、9月1日は、私にとって長い一日でした。まさか私が選ばれる筈ないと思ってはいたものの、ひょっとしてという気持も少しはありました。夕方、エジソン賞というお電話をいただいた時は、うれしくて、早く誰かに伝えたいと、友達に次々電話しました。今までも自分の想いを文章にする事はありましたが、どこかに発表する等という事は考えていませんでした。でも今回のテーマは、私にとっては身近なテーマだったので、書いてみようと思いました。しかし、思いを文章にするという事が、いかに大変かという事を改めて知りました。でも今回の受賞を励みに、自分の考えを文章にしてみようと決心しています。本当にありがとうございました。
●略歴
昭和24年1月22日 愛媛県今治市で産れる
41年3月 高校卒業
58年12月 結婚
平成 2年6月 透析に入る
9年 現在に至る