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私にとって老後とは、定年後の人生である。
定年前、定年後の準備をするのは気が進まなかった。「毎日が日曜日」「濡れ落ち葉」
「人生の墓場」耳にするのは暗いことばかり、それらが誇張された表現だとは思うものの、期待できることは何もなさそうだった。それよりなりより嫌だったのは、定年後のことを考えること自体が自分を小さくしてしまうような気がしたのである。
これといった準備もせず、定年を迎え、図書館通い、一万歩歩き、地方自治体主催の研修会参加、夫婦の海外旅行と定年者の定番をこなしていった。
定年生活二年目の春、四十七日間にわたる歩き遍路をした。途中立ち寄った茶店のおじいちゃんの一言が今でも記憶に残っている。
「歩きお遍路さん、でけたらええなあ。健康であること、四十日近く自由な時間を持てること、そしてほんの少しのお金がいるんだけど」
車では何度も回ったけどついに歩き遍路はできなかったと言っていた。経済的に恵まれているとは決して思えないおじいちゃんが、お金のことを最後の条件として、しかも「ほんのすこし」と形容詞をつけたことに強い印象を受けた。歩き遍路を終えた時「今までの人生の中で一番贅沢な時間を味わった、これ以上贅沢な時間を味わうことはこれからもないだろう」というのが実感だった。
この頃から定年後の人生は、定年前に想像していたものとは全く違うものだとは感じ始めた。それをはっきりとした形にできるようになったのは、
「定年を境に世界が変わる。定年後の準備をするといっても、それまでの世界の延長と考えていたら意味がないこと。大事なことは世界が変わったときに自分を変えていかなければならない。自分を変えることは苦痛が伴うので大変なことなのだが」
という講談社編「定年学」にある養老猛司さんの談話記事に出会った時だった。
改めて、定年後の世界を見つめ直してみると、それまで気づかなかったものが見えるようになった。そこには効率(速度)という「ものさし」がないのである。従って他との比較がなく競争がない。「効率のものさし」がない非効率の世界では時間は「使うもの」から「味わうもの」に変わるのだった。
足立紀尚著「幸福な定年後」のあとがきの一部を紹介する。皆さんはどのように受けとめるのだろうか。
「父は強い日差しを避けるために、眉毛まで隠れるようなスキー用の大型サングラスをかけ、わざわざこのためにだけ買ったらしい大型脚立にまたがって慣れない手つきで剪定ばさみを使っていた。地面に置いたラジカセからは、定年になってから行き始めたという混声合唱団の練習曲をBGM代わりに流しながらパチン、パチンとやっていた。・・・
翌日、用を済ませて再び実家に戻り、ふと庭先を覗いてみると、父は庭木の剪定を続けていた。すでにお盆も中日を過ぎかけているというのに、相変わらずのんびりとした調子で作業をしているのである。けっきょく庭の手入れに三日ほどかけたようだった。その様子を眺めながら、私は半ばあきれてしまった。いくら定年後のつれづれにやっていることとはいえ、庭一軒の手入れに二日も三日もかかっているようでは、シルバー人材センターの仕事だって務まらないだろう。」
私自身、もし定年直後に読んでいたら、何の疑問も抱かず、そのまま読み過ごしていただろう。当時の私は著者と同じ考えを持っていた。しかし今では、はっきりと言える「それは違う、お父さんは至福の時を味わっているのだ」と。
引用の中に、もう一つ、二つの世界の違いを際立たせている箇所がある。
「シルバー人材センターの仕事だって務まらないだろう」との主張である。
仮にお父さんが「庭の手入れ」を市価の三分の一の価格で、しかも通常より三倍の時間をかけるという条件付で請け負ったとする。となると単価は市場の九分の一。効率を尺度とする社会では絶対に起こりえない話である。だがもしこの取引が成り立てば、頼む方も、お父さんも大満足という結果になる。
このように視点を変えてみると、効率を尺度としているために生じている様々な矛盾に気付く。お遍路さんをした時、立派に修復改装された道路と道路の間には必ずといっていいほど永い間修復もされず放って置かれたままになっている部分があった。この様な箇所の破損状況は特にひどく側溝の蓋さえない状況になっている。もし近くの住民と応急修復作業に関する何らかの契約ができれば事態は改善されるだろう。
高知の海岸には立派な公園ができていた。異様に思ったのは豊富な自然に囲まれた場所に、ありきたりなアスレチック広場があったり、また公園内の歩道には東京の銀座ではふさわしいかもしれないタイルが敷き詰められていたことであった。何かがおかしいのである。効率を尺度としている社会では高い材料を使ってでも短期間で工事を仕上げることが最良の方法であると誰もが疑いをはさまないのである。
効率に対して批判的な見方をするのは、ありあまる時間を持っている定年族だけなのだろうか。いやそうではなさそうだ。同じ主旨の動きが世の中に既に出始めている。スローフード、スローライフである。効率万能主義に対する反省と見直しは世界共通のテーマになっている。その点からすると、我々定年族の方が現役の人たちより時代の先を歩んでいるのではなかろうか。
四十年近く企業戦士のはしくれとして効率を追及してきた。国際企業間競争を勝ち抜くために、効率が如何に重要なことかは骨身にしみて判っている。と同時に四年半という短い期間ではあるが、非効率の世界に住んでみてその豊かさも十分味わった。
これからの日本、世界最長寿国として前例のない高齢国になる。どのような国にすれば皆が幸せになれるのか。効率、非効率両方の世界に住んだ者としての提言をしたい。
それは効率、非効率二つの世界がバランスよく共存する国になることだと。
次の世代のために、今の私に出来ることは、過去の経験知識を伝えることではなく、現在の行動、つまり私の提言を実現するための道を切り開くことだと考えている。
その道は、重量車が高速で走れるような大きな道ではなく、人一人がようやく歩けるだけの小さな道なのだが。
私の作った道を、時には修復、時には軌道修正をして、さらに拡張して欲しいと願っている。遍路道が何百年の年月をかけて作られていったように。
参考文献
講談社編 定年学 講談社発行
足立紀尚著 幸福な定年後 晶文社発行
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