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既にこの日本でも、合法的な選択的夫婦別姓が実施されている。夫婦のいずれかが外国籍という国際結婚の場合で、厳密には、「原則別姓、希望者のみ同姓を選択できる」のだが、国内で婚姻届を出すカップルの24組に1組が該当する。そのようにして、日本人の私と外国籍のつれあいが別姓夫婦となって四年目を迎える。
だが、あらゆる場面で私たちは、「正式な夫婦か」「どういう関係か」と尋ねられる。一般の人からは勿論、確定申告の際、税務署員から質問されたり、夫婦で利用の登録をした市立図書館では、「同じ住所なの」と返ってきたことがある。私たち夫婦が、別姓であるがゆえに「夫婦・家族」ではないかのような扱いを受けているこの日本社会は、逆に、同じ姓の印鑑を共有する者なら誰でも「夫婦・家族」と見なされる社会でもある。
実際につれあいは、配偶者や子どもの名義でも通帳が作れ、印鑑一つあれば誰の預金でも引き出し放題、また個人あての書留を家族誰もが受け取れる日本の状況にカルチャーショックを受けたという。すべての家族が一心同体で、誰が預金を引き出そうが一向に構わないなど幻想にすぎない。ところが日本の社会は、住民基本台帳の「個人」コードが「世帯」単位で届いたように、幻想を前提に機能している。このことは、個人の権利・責任を曖昧にし、自分の財産管理など生きていくのに必要な諸手続きが、家庭内強者の手に握られていることを意味する。
私自身、つれあいと出会う前、唯一の「家族」である母との関係がうまくいかず、カウンセリングを受けていた時期があった。当時、私あての郵便物が母に勝手に処分されてしまったこともあり、届かない書留を「母が既に受け取ったのでは」と郵便局に問い合わせると、「家族なのに知らないのか」との答。「同じ印鑑を用いる同姓の者、すなわち家族、イコール一心同体」という建て前の家族観に覆いつくされている社会では、虐待やドメスティックバイオレンスの存在自体見えにくくなっている。その結果、加害者になりうる家庭内強者の権利のみが最大限尊重されてしまうのだ。
諸外国では、役所や金融機関などでの各種手続きの際は、本人が窓口でサインするか、本人直筆の委任状を要求されるのが普通だ。家族といえども人のサインを偽造すれば犯罪になる。日本社会では、私たちのような「家族」と認識されない別姓夫婦にかぎり、諸外国における手続きと同様、委任状等の手間ひまが要求されるが、これは本来、家族一人ひとりの権利を守るために不可欠な作業であるはずだ。
このように、夫婦単位でなく個人単位の私たち夫婦は、つれあいの母国に共同名義で作った口座は別として、相手の銀行キャッシュカードの暗証番号や収入も知らない。確定申告の際、「今年度の被扶養者」を便宜上決めるため、初めて互いの年間収入を計算する。家賃や食費などは、互いに共同財布に同額ずつ出し合い、そこから支払う形になっているが、なぜか珍しがられ、女性誌から取材まで受けた。
世界の中で夫婦同姓しか認めない国は、日本を除くと2か国に過ぎない。生まれたときから使用し続けた氏名は、他者と識別し、その人を最も如実に象徴する固有の「ブランド」だ。その人格と一体化した姓を、婚姻により問答無用で抹消し、結婚相手によってころころ変化させる制度は、その人の氏名という「ブランド」を踏みにじるに等しい存在であるとさえ感じる。
夫婦単位で編成された戸籍、世帯単位で登録される住民票など、日本では、行政が住民を夫婦・世帯単位でしか把握しない制度を作り上げてしまったことも、夫婦同姓を支えるベースになっている。だが、国際結婚では、同姓・別姓を問わず外国籍の配偶者は戸籍や住民票に記載されないため、私だけの独立戸籍・単独住民票が作られている。子どもができ、つれあいの姓を名乗ることになれば、その子単独の独立戸籍が、配偶者の姓で編成される。同じ姓のきょうだいも、それぞれ独立した戸籍になり、個人の身分登録と変わらない状況になる。
現在、日本における国際結婚は東京の一部区内では10組に1組にまで増加し、今後日本全体でも増え続けることは必至だ。それに伴い、家制度の名残である戸籍や世帯単位の住民票は現実に意味をなさなくなるため、近い将来、否が応でも行政は、戸籍制度を廃し、住民を個人単位の登録に切り替えざるを得なくなる。
ここで、夫婦別姓反対論者の、唯一最大の柱となっている「家族の絆(子どもの姓)」に目を向けたい。厚生労働省のデータが証明しているように、選択的別姓が認められている国際結婚夫婦も日本人夫婦もここ数年は、婚姻数に対する離婚数は、ほぼ同じ3組に1組となっている。世界でも、同姓・別姓・結合姓などの中から選択できる国が大部分を占めるが、そもそも別姓と離婚率に因果関係を見出せるデータは存在しない。
夫婦別姓の国出身のつれあいに、姓の違う母親に対する感情を尋ねたことがある。「日本人の親子の情は同姓で繋ぎとめておかなければ、消しとぶ程度のものか」と逆に聞かれてしまった。確かに。私の両親は離婚したが、その後も母と私はずっと父の姓で生きてきた。母方の祖父母が父の姓を名乗る母や私を、内孫たちよりも疎んだり、邪険に扱ったことがあっただろうか。私たち夫婦も、子どもを持った場合は将来生活基盤となる国の姓を名乗らせる、という利便性重視で姓を決める意向だ。
また、「○○の妻(母)」といった呼称は、女性の人格の軽視という理由で別姓を希望しているという声を聞く。だが、ある集まりで私たち夫婦が名刺交換した社会的地位のある若い男性は、つれあいには姓で呼びかけるものの、私に対しては最後まで「奥さん」で通した。「私の名は奥ではない」と口をはさむタイミングを狙っていたが果たせず、「名刺一枚損した、読めない人にあげて」「次回からは取り戻そう」と夫婦で怒りながら帰った。別姓夫婦を実行している立場としては、「なぜ一方に対してだけ」と、相手に問いかける口実が作りやすい。そうやって声をあげないと、既婚女性に姓など必要なしと考える人々は、自身が他人の足を踏んでいることに永遠に気づかないままだ。
選択的夫婦別姓を導入しても、すべての夫婦が別姓を選ぶわけではないことは、現在の国際カップルたちが証明している。日本国内を生活基盤にしている場合には多くが、百年前に旧民法で義務づけられ、戦後一部改正され今に至る夫婦同姓制度を社会的慣習と受けとめ、同姓を選んでいるのが現状だ。だが、「夫婦・家族の多様なあり方」を認めると同時に「家族内における個人、特に弱者の権利を守る」ための気運を高める風穴的役割を期待する意味で、私は日本における選択的夫婦別姓制度実現を心待ちにしている。
参考文献
文藝春秋編『日本の論点97』
もりき和美『国籍のありか・ボーダレス時代の人権とは』明石書店
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