十二月はじめの土曜日、寒い朝だった。私は旧友たちとの集りが都心であるので、八時半のバスに乗った。最寄りの私鉄駅までは二十分近くかかる。休日のバスはガラ空きだが、
途中から一人二人と乗り込んできて座席は少しずつ埋まっていく。
あるバスストップでざわざわと五、六人が乗ってきて、その最後は、小さな女の子を抱きかかえたお母さんだった。彼女は子供を下ろして一人で立たせ、ハンドバックの財布からバスカードを取り出し料金箱のケースに差し込もうとしているのだが、てこずっている。
その子は私の2mほど前に立って、あどけない顔で車内の乗客の様子を眺めていた。
私は気づいた。運転手さんは発車したがっている。彼はこの子のことが判っているのだろうか、心配した。やっと立っているような小さな子供だから、急発進したら転んでしまう。私は腰を浮かし、バスが動き出したら飛び出して子供を押さえてやろうと身構えた。
バスがゆるやかに発進し、お母さんがあわてて振り向いて子供の方を掴んだので、私の出番はなかった。
それから二人は、私の反対側にあるシルバーシートに並んで座った。行儀よく腰掛けた女の子は母のズボンの上に片手を置いて、なにやら言葉を交わしている。母を信じきった娘だ。
その時、私の気持ちの中では、このお母さんはもう少し子供のことを注意して見守るべきだと非難したし、また、子育て中の母親はなにかと大変なんだなと同情もした。
さて終点に着いて、乗客たちが降車口に群らがったので、私はゆっくり下りることにした。最後に並んだ私の前に先ほどのお母さんがいて、抱かれて後ろを向いた女の子と顔が会った。愛くるしい顔が、ちょっと落ち着かない表情だった。
ステップを降りようとする時、女の子が、
「のどがかわいた。おみずがのみたい」
バスの中は少し暑かったからだろう。
「そう、でも今お水はないの。我慢できる」
「うん、がまんする」
「ありがとう」
女の子は大きな目でうなずいた。
私はびっくりした。「ありがとう」とは思いがけない言葉じゃないか。私はこの若い母親がいっぺんに好きになった。こんな小さな子供でもちゃんと一人前に扱ってやって、喉の渇きを我慢している相手に素直に感謝しているのだ。すばらしい信頼関係じゃないか。
甘やかされた男の子が「ジュースを飲みたい」と、駄々をこねる光景はよく見る。
「我慢しなさい」と叱ると子供がワンワン泣きわめいて、パニックになるお母さんがいるが、えらい違いだ。
逆に、とても聞き分けの良い、いわゆるいい子がいる。「だめ。ここには、お水がないでしょう。我慢しなさい」とお母さんに命令されて、あっさりあきらめる子供だ。しかし、
母親の命令に従ってばかりいる子供は、いつまでも自分のことを主張しないし、どうやればよいか自分では判断できない無気力な子供で、社会生活を送る上では問題ありなのだ。
見かけはいい子でも、心は未熟なまま。そんな子供が最近多いらしい。
理性的過ぎるお母さんは、理詰めで子供を言い負かし、本人はうまく子供を躾けているつもりだろうが、現実は子供の自信をなくさせている。子供の心を抑圧して発達を阻害しているのが判らない母親は、子供を手で打って苛めるぐらいひどい母親じゃないか。
バスの中のこの若いお母さんは子供に、「我慢しなさい」と高圧的に押さえつけるようなことはしない。「がまんできる?」と判断を求めた。そして子供は誇らしげに「がまんする」と応えたのだ。
打算で言えば、いずれにしろその子は我慢しなければならないのだから、母親の扱い方次第といおうか、言い方次第である。
その親子はステップを降りバスを離れたが、ぞろぞろ駅に向かう人込みの中で、また私の前にいた。そうしたら、お母さんに抱かれた腕の中で女の子が言うのが聞こえた。
「ママ、のどがかわいてない?」
「お水のみたいわ」
「がまんできる?」
「へいき」
またまた私は驚いた。こんなに小さな子が、
「がまんできる?」と母を思いやっている。
ひょっとしたら、この子はとても喉が渇いてたまらない状態なのかも知れない。自分がつらいので、母もそうに違いないと思う、同病相哀れむの仲間意識。たぶんそうだろう。
この子には、苦痛をこらえている自分のことを知ってくれている人が居るという安心感がある。そのような気持ちの余裕があって、
子供の自尊心が芽生え、立場を替えて母をいたわることができるのだろう。このようにして幼い子にいたわりの感情が身につくのだと感じた。
女の子はおませだとは聞いていたが、こんな小さなうちから大人びたことを言うのには、驚いた。
考えてみると、この女の子は母を真似ている。先に「がまんできる?」と言われた言葉を今度は自分が発している。母親の影響は大きいことだと思った。そして、仲のよい母と娘の結びつきはこのようにして形成されるのだと知った。
いずれ娘が大きくなって物心つけば、干渉を嫌い束縛を逃れ自由になりたいと願う時がくるだろうし、一方の親には躾けという仕事もある。この娘が大きくなるまでには、母と娘が自己の立場を言い張って相手を非難しなければならない事態が必ずくる。しかしこの母娘なら、そういう場面
でもうまく乗り越えるのではなかろうか。
私は男ばかりの兄弟で育ったし、娘がいなかったので、女の子のことはよくわからないが、女の子は育てやすいというのはこういうことなのだろう。私は、息子二人だけの妻がちょっと気の毒に思った。
私は全国各地を転勤し仕事に夢中で帰って来ない日もある生活だったから家族には犠牲を強いたようだった。知らない土地で一人で育児に苦労した妻にはずいぶん恨まれた。
今の若い母親は孤独なアパート住まいで相談相手もおらず、育児疲れの人が多いらしい。
育児に振り回され悩むのは大変だ。
母親は言うことを聞かない子供を許せずに言い争うこともあるだろうし、子供に手を焼いて落ち込むこともある。でも母親というものは時によっては、理性を放り出していいのだと思う。八つ当たりでも、感情的になって子供につらくあたってしまっても、その後、
子供に済まないことをしたという気持ちになれば、母性本能のまま抱きしめてやればいいのだ。ひょっとしたら、「あなたに高望みして、ごめんね」と謝ることになるかも知れない。
男親は、よっぽどのことでもない限り子供を抱きしめたりはできないから、女親をうらやましく思う。男親の意地というかやせ我慢している屈折した気持ちの中には、たぶんに身勝手な事情もあってのことだが、人には話せない理不尽な事柄に耐えていることもあり、すべてを家庭に理解してもらえないと思っている。だから男親は背中で生き様を見せるということになるのだ。
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