第12回GE横河メディカル・Essay大賞 大賞(一般部門部門賞)受賞作品
「いのち」の所在
脳死を認めますか~私の結論、家族の結論
卯田 まゆみ(クリニック職員)
心臓移植が行われた。
「脳死」は人の死かと、随分、議論され、脳死も人の死だ、と心臓移植を行うために、認められた。
「脳死」を認めるか、その問いは簡単そうにみえ、また事実、簡単に答えを出している人が多い。
「時代も、医療も、ススんでいるんですよ。脳死、認めますね。新しい死なんですよ。脳死は。」
流行ものでも話すように、そして、さも、分かったように、さらっと答えてしまう彼女たち。新しいものなら、「死」でも簡単に認めてしまうのか。それとも、本当に認めているのか。
「じゃ、意思表示カードにも、そのように書いてあるんだ?」と聞くと、
「それを持つほどでもない。」という。
「わからない。」「関係ない。」が、実際、本当のところの答えなのだろう。
「脳死」「脳死」というけれど、果たして、脳の構造や働き、まして、そのもの、だけの、死の状態を知っている人など、そう多くはいないはずである。
「脳死を認める」その出発点は、「脳死」によって引きのばした死の枠で、できることが増えること、すなわち、部品の増えた移植。「臓器移植」、そのものを認めるか、という原点につながっていくと思う。
そもそも人間の臓器を部品化してしまわなかったら、移植そのものを、医療として認めなかったら、人は、「脳死」について、全死の一%にも満たない、「死の状態」について考えずに済んだはずである。
「じゃ、その他人からは、気持ちだけもらっておく、そのことのしるしに、腎バンクに登録だけしておこう。」
非血縁者間の、生体腎の提供の申し出が、不可能であることの説明の末、医師が提案したことだった。十八歳から人工透析を受け、すでに九年近くが過ぎようとしていた。
「気持ちだけもらっておくことのしるし」という、ひとことに、頑なに否定しつづけてきた「移植」という「医療」に、私は、はじめて同意した。
若い透析患者はいたけれど、当り前のように血縁者、そのほとんどが親からの腎提供を受け、ほどなく透析室に来なくなった。私は、移植は犠牲を強いることだと思い、献腎移植も希望せず透析に通った。
私の母は決して冷たい人でなかったし、もちろん正真正銘の親子だった。しかし、「提供したい」とは申し出なかった。私も欲しいと思わなかった。
世の中に「あげたい気持ち」があるということ、そして、それが、単純だけれども移植医療を支えているということを、「あげなければいけない」犠牲とは、少し違うことを、この時知った。
その日は突然訪れた。
死ぬまで終わることはない、と思っていた血液透析と、その記録は、一四〇八回で終わる。
登録後、わずか三ヶ月。キンモクセイが、黄金色に香る秋の日のことだった。
もう五年が経つ。「普通」であることを、意識しないまでに、ふつうに暮らしている。そんな、再生した私を目の当たりにしながらも、母は「脳死」はもとより、臓器を取り出すこと自体を否定する。しかし、何がどうなろうと、それが彼女の価値観、死生観なのだ。だから、万一、私の母が脳死であるといわれた時、臓器の提供が、消え入りそうな生命を生き返らせ、失われた尊い日々を取り戻せることを、レシピエントの立場から痛いほど知っていても、家族として私は、母が大切にしてきた意志を尊重して、母の手が確実に冷たくなるまで握っていると思う。
人の死も、そして生も人が決めてはいけないことだと思うから。
それにしても、「せんせぃー、脳波、フラットでーす。」とナースがチェックし、専門外の非常勤だかの医師によって、ほんの一、二回で、「もっ、いいんじゃないの。」と下される死。そんな時代が来るのだろうか。永久に表面化しない医療ミスとして、「みえない死」は人によって決められるのではないだろうか。移植医療がもたらす効果が大きい分、二つの助からない「いのち」があるのなら、一つを、と、いつぞやの心臓移植のようなことが、今度は、慣れすぎのうちに、無意識のうちに、そして密室のうちに行われていくのは、「新しい死」に名前を借りた生命操作にさえなりかねない。全ての人の死は、その最後の一分まで「生」として扱われてはじめて、次の医療へ、すすめるのだと思う。
四十歳代で脳出血で急逝されたという、ドナーの娘さんから手紙をいただいていた。キャラクター便せんに、高校生らしい丸文字で、「―――だからって、父が、会うこともないあなたの中で生きているとは思いません。父は死にました。ただ、うまくは言えないんだけれど、「いのち」が移動したんだって思うんです。生きているときは、無口で厳しくって、あまり好きではない父だったけど、今は好きです。それは死んだからなのか、それとも、「ドナー」になったからなのか、わかりません。」
そして、「あなたへ移動したいのち、もう、あなたのものなのだから、大変だと思うけどどうか元気になってください。」と結ばれていた。彼女が、たぶん、何気なく書いた、「いのちの移動」という言葉を、今、心臓移植患者の映像を見る時、自分の移植手術の時と重ね合わせて思い出す。
「いのち」の所在が移動する―――。その時は、「どうか、元気になってほしい」という、幾つもの気持ちが、動くときなのだ、と確信している。気持ちだけもらっておくことのしるしは、ドナー家族の尊い気持ちにも支えられて、現実のものとなっていた。
先日、久しぶりに機会を得て、透析医のもとを訪れた。まるで昨日のつづきのように雑談に応じながら、私の気持ちを知ってか、知らずか、さらりと、「今、何が一番辛い?」と聞いてきた。少しの沈黙のあと、
「―――もう、十年早かったらと……。」
それだけ言うと、あとは涙。
過去は振り返らない。失ったことや時間は数えないと決めていた。けれど、十八歳から二十七歳までの時間的欠損は、それだけにとどまらず、私の心をも、狭いものにしていた。と、今、こうしていえるのは、移植医療が、「蘇りの医療」として多くの役割を含んでいることの裏づけなのかもしれない。私は、すごく素直に泣けていたから。そして、その涙で、また少しのびやかになれた気さえした。
たよりない、子ども絵の天使が描かれた、意思表示カード。私は、脳死後、すべての臓器を提供する、とした。もちろん腎臓にも○をつけた。
「トリプルなんだよ。」って、穏やかで温かな気持ちで、ほほえめるのは、「蘇りの医療」によって、私の中の、「いのち」の所在が、たよりなくも、明確なものになりつつあるからなのかもしれない。
●受賞の言葉
テーマを知ったのが締め切り目前でしたので、一気に書きあげてしまいました。読み返しすら充分にできなかったことなど、心残りはありましたが、以前から、「書いておきたかったこと」を、エッセイという「形」にできただけでも私の中では喜びでした。ですのに、思いもかけず、このような大きな賞を頂けて、とても嬉しく思っております。
どうもありがとうございました。
●筆者プロフィール
1967年 滋賀県草津市に生まれる。
1986年 透析導入となる。週三回夜間透析を受けながら、通学、通勤する。
1994年 献腎移植を受ける。
現在、内科・循環器科クリニックで、受付医療事務として勤務し、八年めになる。