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第11回GE横河メディカル・Essay大賞 エジソン賞受賞作品

クローン人間論が教えてくれるもの

岡崎 みさき

 

 1997年2月23日、一頭の羊ドリーの出現によりSFは現実となって我々の元に返ってきた。ヒトのクローンの可能性を示唆されて、世界中の科学者、生命倫理学者、宗教家、政治家、市民団体などありとあらゆる分野の人を巻き込んだ論争が沸騰した。クローンという言葉の響きから、当初は、全く同じコピー人間が量産されることを危惧したパニック反応が起こった。「人間のゼロックスコピーを作ることは恐ろしい犯罪」であり、「倫理的に不適当」であり、「常軌を逸した」「倫理にもとる、道徳的な嫌悪感を催させる、人間の尊厳を損なう」という反応が主であった。これは、DNAが同じであれば容姿も人格も全く同じになるはずだという理屈に基づいたものであった。SFの影響で、クローン人間という言葉はそういった不気味なものを感じさせた。しかし、実際は、いくら同一のDNAをもっていても、家族も境遇も歴史的環境も異なるところで育ったクローンが、親と全く同じ人間になるということは考えにくい。こういったSF的懸念が広がってしまった背景には、科学技術の発展があまりにも早すぎて人々の意識が追いついていけなくなってしまっているという現実がある。現在では、これほど極端な主張は訂正されつつあるが、クローン人間が受け入れられる風潮にはほど遠い。このような状況をふまえて、クローン人間論の持つ意味を探ってみたい。
 クローン人間を生み出すことに反対する人々の意見は様々であるが、ここではその論点を「良心の承諾」、「社会の承諾」、「科学の承諾」、「本能の承諾」という観点から四つに分類してみる。
 まず第一に、人間の胚は「子供のもと」であるからその研究利用は特別な配慮を必要とする、という意見がある。これはクローン人間研究を含めたクローン胚を用いた基礎研究を制限するもので、現在、中絶にまつわる論争と相まってもっとも激しい議論が交わされている点である。クローニングの応用として、クローン胚をある特定の細胞へ育てるという組織再生の夢は、移植を必要とする多くの患者を救う。このような病気治療の研究が叶えられるかどうかは「クローン胚は生命か」という議論の決着にかかっている。この第一の論点を、「良心の承諾」が得られていないこと、と分類することにする。
 第二に、クローニングの画一性は進化を妨げ、社会全体に何らかの害を及ぼす、というものがある。この第二の論点は、「社会の承諾」が得られていないこと、と分類する。この意見については、以下のような反論がなされている。両親の遺伝子の相互作用が多様な子孫を残すことを可能にし、人類という種を進歩させてきたという点は確かに事実である。しかし、将来クローニングがいくら一般的になろうとも、生殖可能な人口のおそらく殆どは受精によって子供を持ちたがるであろう。人類の進歩を妨げるほどの数のクローン人間が世に生み出されるとは思えない。従って、この点に関して言えぱクローン人間を禁止する十分な理由とはならないと思われる。
 第三に、安全性の問題がある。クローニングによって生まれたことが個体の健康と老化にどう関係するかは、未だわかっていない。また、クローニングのプロセスに独特の遺伝的問題が起こることも懸念されている。クローニングで産まれる子供が、受精によって産まれる子供と同じ健康状態を保つかどうかは、今後の動物実験によって徐々に明らかになるであろう。第三の論点を、「科学の承諾」が得られていないこと、と分類する。
 第四に、クローン人間をつくることは神の領域を侵すような感覚があるという問題がある。クローン人問を生み出す研究は科学の暴走であり、狂気への入り口だとする人々が存在する。なぜそのように感じるのであろうか。「神の領域」という言葉はこういった生殖にまつわる革新的な技術が開発される度に聞かれる。これといった強い信仰を持たない一般の人々までもが、この問題に関しては「神の領域」という単語を使いたがる。そういう人々は自然に逆らうことへの本能的な畏れを「神の領域を侵す」という言葉で表現しているのだ。実際に信仰心の厚い人々の指す「神の領域」とは若干意味が異なってくる。クローン人間にまつわる問題を議論する上で重要になるのは、本能的な畏れとしての「神の領域の侵害」である。そしてこの点はクローン人間実現に向けて、おそらくもっとも大きなハードルとなるであろう。ここで、1966年にソフィア・J・クリーグマンとシャーウィン・A・カウフマンが述べた言葉を引用したい。
 「情緒的に論じられることが多い分野では、習慣や手法に変化があるたぴに、まず、これまでの習慣への執着、恐怖心に近いとも思える反対論が起こる。しばらくたつと恐怖心が消えてただの反対論となり、それが次第に好奇心に変わり、調査と公平な評価が行われ、ゆっくりとではあるが必ず受け入れられる」
 実際、これまでの人工的な生殖技術は「神の領域を侵す」と非難されながらも時がたつにつれて馴染みのあるものになってきた。しかしこのことがクローン胚により産まれる子供の場合にも当てはまると言えるだろうか。クローニングによって子供を持つという生殖方法はこれまでの生殖技術の発展を一足飛ぴに越えてしまう。精子と卵子による受精という過程を経ずに誕生する子供は間違いなく自然の掟に背いた存在である。生体の体細胞から胚を造り子供を作るのは、これまでの生殖技術とは明らかに、明らかに異なるのだ。
 「クローン人間とは、年の離れた一卵性双生児にすぎない」という言葉は、遺伝学的には正しいかもしれないが、クローン人間に対する畏れを取り除くことはできない。理屈の上での納得が、本能を説得することはできないのだ。この第四の論点は、「本能の承諾」が得られていないこと、と分類する。
 以上の「四つの承諾」が得られない限り、クローン人間は世の中に受け入れられないであろう。少なくとも第一の「良心の承諾」を得ないことには、クローニングが開く新たな医療の扉を求めて研究することも許されない。しかし、複雑に絡み合う「四つの承諾」に対して、人類全体の納得する解答が得られることはあるのだろうか。ことに第四の、人間の根源に関わる「本能の承諾」を、人類全体が明確な形で得ることなどあるのだろうか。まさに終わりのない議論の幕開けとなることは必至である。そしてもっと重要なことは、議論の決着を待たずとも、生み出す技術が存在する以上、必ず世界のどこかで誰かがクローニングによって子供を持とうとするだろうということだ。それは独裁者かもしれないし、不妊症に悩む夫婦かもしれないし、ホモセクシュアルのカップルかもしれない。クローン人間を生み出すかどうかを決めるのは、もはや、法ではない。市場がクローニングをコントロールするのである。こうして科学の進歩は押し止めることのできない潮流となり、津波のごとく人を巻き込み、呑み込んでせせら笑う。人々が慌てふためいて交わす議論は科学のしっぽを捕まえることすらできない。科学がもたらしてくれることが良いことなのか悪いことなのか判断する前に、科学はその先へ進んでしまうのだ。クローン人間に関する議論は、実のところ、こういった真実をも我々に示しているのである。

 

●受賞の言葉
 この大賞に応募しようと思ったことがきっかけとなり、クローン人間の問題に関する知見を深めることができました。また、普段漠然と心に浮かんでいることを、言葉に造り上げていくことの難しさも知りました。エジソン賞を受賞することができて本当にうれしく思います。有り難うございます。

●筆者プロフィール
 1975年10月3日 大阪に生まれる。
 1988年 大阪市立田辺中学校入学
 1991年 大阪市立田辺中学校卒業、大阪府立天王寺高等学校入学
 1994年 大阪府立天王寺高等学校卒業
 1995年 名古屋大学医学部入学 現在四年生


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