第11回GE横河メディカル・Essay大賞 一般部門賞受賞作品
「自分」のない男たち
石田 典子
今、男たちは守らねばならないものを持ち過ぎている。あまりにも出来すぎた生活の基盤は、その中のひとつが壊れただけで見事に崩れていく。崩れるのが怖くて、前に踏み出せない男たち。彼らは良き恋人であり、夫であり父親であるために、とても大切だと錯覚している数多くのものすべてを守るために、自らの男としての本質を、どこかに置き忘れてきたようだ。
彼らが守っているものは、一体何なのか? たぶんそれは、女たちが創り上げた超現実的な生活である。はじめは窮屈に感じるマニュアルだらけの世界も次第に住み心地良いものになり、家族の生活や数々のローンでがんじがらめになっている自分に、いつの間にか酔っている。
「○○○の為にオレは頑張っているんだ。」という大義名分のもとに、男たちの多くは自分の為に男として生きるという重荷から、逃げているようだ。
独りで居ることが似合う男がいる。自分の為に生きることが、これほど疲れると知っていながら、男としての自由を捨てられないのだろう。ほんの少し寂し気で、せつなげで、彼の周囲は殺風景にも見える。けれども私はそんな男をうらやましく思う。そして憧れる。守らねばならないものが少ない分、彼には男としての余裕があり、優しさが残されているように思えるからだ。
実際に独りで居る必要はない。様々な取り巻きのなかに居ながら、独りの横顔を持つ男にも同じことが言えるだろう。彼もまた自分が男であることを忘れてはいないはずだ。
私は、二才になる次女のお伴で、近所の公園を訪れる。午前中の公園には、幼稚園に入る前の子供たちが出入りする。その中で、私の目を魅いたのは、三才になる男の子のひとり、つばさ。はじめて出会ったのは半年ほど前だったろうか。Tシャツとズボンの間に、小さなおヘソが見えていた。昔に見たアニメ狼少年ケンのような髪型で横顔が実に少年らしい。身のこなしが軽快なうえ、立ち止まる瞬間の仕草がまさに男の子という印象だった。子供の世界でも男女が似か寄ってきている最近、まだこんな男の子が存在するのだと私は秘かに嬉しく思った。
その後も私はつばさをよく見かける。時には弟や友だちと一緒だが、時には独りで彼は現われる。あり余るほどの時間を、彼は悠々と過ごしているように見える。
かつて少年は皆そうだった。友だちが見つからない時間、少年は独りでぼんやりと歩いていた。拾った棒切れでそこら辺をたたいたり、石ころを蹴飛ばしながら。退屈な時間を抜け出すために彼はひたすら自分を相手に遊び続けていたのである。母親の目から少し離れ、遊び相手のいない時、少年は独りで何を考えていただろう。自由で何にも縛られない自分を自覚していただろうか。これが自分の人生の始まりだと気づいていたとは思えないが、確実に彼は自分の人生を歩み始めていたのだ。
いつの頃からか、独りで目的もなくぼんやりと時間を過ごす子供を見かけなくなった。そして少年は自分の存在を認める暇もなく、塾や習いごと、テレビ、ビデオ、ゲームのなかに融合しながら未来の大人の予備軍として育ち始めたのだ。
本来、守るべきものが何もないはずの少年が、まるで何かを守らねばならないかのように冒険をやめてしまった。自由で退屈な時間を持て余すこともなくなった。少年たちは、多くの物や情報に囲まれて、幼ない頃から自分の居場所を確保するようになったのである。もはや、彼らは放浪する機会を失った。同時に精神的な放浪までも放棄するかのように、幼い頃から自分のマニュアルを身体の中に備えてしまうようになった。
大人の男たちも同じである。独りよがりでわがままで、自分の為に生きるための放浪は、現代社会において我が身を危険に晒すことになる。しだいに男たちも自らの居場所を上手に確保することだけを求め始めたようだ。もはや独りでさまようことなどしない。いや、さまよう力を持ち合わせていないのである。
ひとつの社会現象で言えば、携帯電話やポケベルで、自分の存在をつなぎ止めようとしている行為も、私から見ると気になることである。仕事上のつながりかプライベートなものかは、ここでは問題外である。何かにつながれている自分を窮屈に思いながら、一方で何かの不安から逃れるために、彼らはそれを離せない。一時も独りでは居られないかのように、電話を通じて男たちは集う。組織や家族の中に入り込まなければ一人前ではないような仕組みになっているからだろう。自分の為に生き、自分の責任で事を起こし、その代わりに何の報酬も期待しない。そんな孤立した男は、今の時代に生きられないと言われるかもしれないが…。
それならば、全人格を自分の為だけに賭けられなくとも、人格の一部でいい、一人の男として孤独になり、同時に社会や家族から自由になり、自分の精神世界を放浪してみるのはどうだろう。自分だけの為に時間を使った分だけ、自分のわがままを通した分だけ、私たち女にも少しだけ優しくしてくれる男がいい。誰かのために、何かのために頑張っているという気負いだけでは、意識としての優しさしか生まれない。感覚としての優しさを持たない父親や恋人から何が得られるだろう。何故か、男も女も優しさの取り違えをしている。男は女が長い年月を費やして仕掛けた罠にすっぽりはまって、今や逃げようともしない。本来の男として生きるよりも、居心地が良いのだろうか。恋愛、結婚、家庭生活すべてが女の都合で進められていく。男は男を放棄し、女は逆に女であることを主張しながら生き生きと泳ぎ始めた。
男と女の関係は、いつの時代も変わらないと言われつつ、近い将来、見事に様変わりするのではないかと思う。今、男たちは両手や背中の荷物を少し減らして出直す時だ。守らねばならないと思い込んでいるもののなかには紙クズ同然の重い荷物も少なくない。多くの荷物の中に埋もれてしまった自分の存在を掘り起こし、男として身軽で自由な一面をもう一度見せてもらいたい。少し傲慢になりすぎた女たちを振り向かせるためにも、本当に素敵な男たちが現れる時代を待つことにしよう。
●受賞の言葉
この春、私は四十歳になり、ようやく大人になったという実感を得ました。もう、何を言っても何をやらかしても誰にも叱られないぞ、という妙な自信から、エッセイを書こうと思いつきました。今回、賞を頂いてかなり動揺していますが、私のつぶやきを聞いて頂ける機会に恵まれ嬉しく思っています。
私の過去にも現在にも、力説するほどの話はないので、七才と二才の娘たちと過ごす騒がしい日常の中で、ほんの少し醒めた私のつぶやく声をエッセイとして記録していこうと思います。
●筆者プロフィール
一九五八年、大阪生まれ。
京都市立芸術大学で染織を学ぶ。卒業後、番組制作会社で、現場や企画・構成の仕事を手伝い、楽しい四年間を経験する。その後、高校の美術科非常勤講師として三年間を過ごし、結婚、出産。現在は専業主婦。一年に、一~二点、織の作品(着物、屏風など)を発表している。